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岡田英弘著作集 Ⅱ 世界史とは何か

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私の好きな歴史観の岡田英弘さんの著作集第二巻、世界史とはなにか

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1446年に頒布したハングル文字は、現在の韓国語・朝鮮語の基礎を築いたものであるが、この文字は元朝のパクパ文字(チベット文字を基にし、それを縦書にしたもの)からつくられた。

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遊牧生活にも弱点がある。
人間の栄養にはタンパク質ばかりでは不十分で、糖質も取らなければならないが、
草原地帯では農耕ができないので、穀物が手に入らない。
また日常生活に必要な鍋釜や刃物などの金属製品も草原地帯では十分に作れない。
そのため遊牧民は、隣接する農耕地帯に出かけて行って、家畜などと引き換えに、こうした必需物資を農耕民から手に入れなければならない。
こうした交易が順調に行われている間はいいが、紀元前221年に秦の始皇帝がシナを初めて統一すると、情勢はモンゴル高原の遊牧民にとってきわめて不利になった。
国境貿易は皇帝の直轄事業となり、どこの市場へ行っても、遊牧民は一方的に買い叩かれるばかりとなった。
こうなると、遊牧民としても、大同団結して対抗するしか方法はない。
こうして始皇帝のシナ統一とほぼ時を同じくして、モンゴル高原にも匈奴という部族を中核とした遊牧帝国が成立した。

それが歴史上最初の遊牧帝国で、これからあと、どの時代にも、遊牧帝国はシナに接するモンゴル高原で発生して、そこから「草原の道」をたどって西へ西へと移動してゆくことになる。

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もう一つのモンゴル帝国の遺産は、朱子学である。
十二世紀の南宋の漢人朱熹は、儒教の古典を新解釈して朱子学をつくり出したが、
異端として迫害され、南宋では朱子学はついに公認されなかった。
之を初めて公認したのがモンゴル人の元朝で、1315年に科挙の試験を再開したとき、朱熹の著作を出題範囲とした。

明朝がこれをそのまま引き継いだ結果、朱子学がシナの官僚仲間の表向きのイデオロギーとなったのである。

儒教よりもさらにおおきなモンゴル帝国の遺産は、飲食物である。
各種の肉料理や、香辛料を使った味付けや、蒸留酒を飲む習慣などは、
全てモンゴル人がシナに持ち込んだものである。
麺を食べることも、この時代にシナに普及した。


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オアシス都市というのは完全に人工で出来ている。
オアシスというと、沙漠の中に自然にこんこんと水が湧いていて、そこにヤシの木が茂り、ラクダが水を飲んでいるといった風景を想像するが、全然そんなものではない。
どうなっているかというと、高い山から氷河が溶けて流れてくる水を、
山の麓に近いかなり高いところで受ける。
そこから縦に深い井戸を何本も何本も水路にそって掘り、そのそこに横穴を掘って、地下水道(カーレーズという)をつくる。
そうやって地上を通さずに水を山の麓から町まで引いてきて、それを汲み上げて流すわけである。


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ウイグル人というのは、新疆ウイグル自治区のトルコ語を話すイスラム教徒の人たちで、
新疆ウイグル自治区の南半分の原住民である。
その巡礼たちに会って話を聞いたのだが、漢人が新疆を漢化し、漢民族の地帯にしようとする努力はたいへんなもので、
将来の目標は、四億人を新疆ウイグル自治区に定着させる計画だということである。
これは途方も無い話だと想った。

また、ウイグル人の人口は、1960年台に200万人と言われ、1980年台も200万人ということになっているが、これはどう考えてもおかしい。
中国の統計はためにする統計である。
家族が増えているのに、全体の人口が増えないという。
その巡礼たちに聞いた所、現在ではどうか知らないが、少し前までは子供が生まれると病院に連れて行って予防注射をする。
そのとき、何番目の子供可聞かれる。
二人目までだと予防注射をしてくれる。
三人目だとしてくれない。
ひどい話になると、首を捻って殺してしまうというのだ。


その人は大変反共的な傾向の強い人だったから、どこまで本当かわからないが、
人口を制限し、なるべくウイグル語を使わせないようにする。
学校も、小学校ではウイグル語でもいいのだが、上級に進もうとすると、漢語でしか教育してくれない。
われわれはもう手遅れだ、絶滅する運命しかない、ということを言っていた。

ーー中略ーー
ロンドンには
「セントラル・エージアン・レビュー」というたいへん反共的な中央アジア専門誌がある。
そこに書いている人には、みな反ソ・反中国宣伝の色が濃く、
どこまで本当なのかわからないが、日本で報道されている中華人民共和国のイメージとはまるで正反対なのである。

ここまで
調べると、セントラル・エージアン・レビューは1960年台に発行を停止している。

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これまでソ連では、社会主義の国際主義ということで、ことにロシア人がアイデンティティを強調することは、極力抑えられていた。
ロシア人はそれまでもっとも優勢な民族だとされ、
ソ連の国民の人口の51%を占めていたのだが、
政治的にロシアというアイデンティティを主張すると弾圧されたのである。

それは一つには、スターリン自身がロシア人ではなく、グルジア人であったこと、
レーニンも純粋なロシア人ではなく、ユダヤ人とモンゴル系のカルムィク人の血が混じっていたといったようなこと、
さらには赤軍をつくった軍事指導者のレオン・トロツキーがユダヤ人であったことなど、
ボリシェヴィキの指導者のなかに、ロシア人でない人が非常に多かったせいもあると思う。

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漢人を漢人たらしめているのは三つあって、三つともヨーロッパ的な民族の観念とまるで違っている。
それは漢字と都市と皇帝である。
漢字を使っている者が漢人である、というのがまずひとつ。
それから都市に住んでいるものが漢人である。
三つ目が非常に大事なのだが、皇帝の統治に服しているものが漢人
である。

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(日清戦争後)満州人はこれまでの伝統を全部放棄して、日清戦争の後、科挙を廃止した。

それまでは科挙に通った、漢字を使える人間だけが官僚になれ、
シナのマネジメントが出来たのだが、それ以後、官僚になれる道筋が変わった。
日清戦争の敗戦の翌年(1896年)から日本に清国留学生がたくさんやってきたが、その当時はもう清帝国は法令を整備して、日本留学生を科挙の合格者と同等に扱うという法律を制定していた。

つまり、日本の専門学校で速成講習を受けて帰ってきたものはこのランク、
私立大学に入ってきたものはこのランク、帝国大学に入って帰ってきた者はこのランクと決まっていたわけだ。
日本の帝大を卒業したものは、最高のレベルだった。
それから軍人も、日本の陸軍士官学校を出た者だけが将校になれるシステムになった。
なかでも日本の陸軍大学校を出た者は、トップクラスになった。

日清戦争を境にして、シナ文明は事実上存在することをやめた。
これからあとは完全に日本文明だ。
と言うわけで、これからはシナ以後の時代になったのである。

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ベルリンで、なんでモンゴル語の通訳がいるのかと思ったのである。
話を聞いてみると、パスポートもビザも身分証明書もなしに、ポーランドから闇に紛れてオーデル川を小舟で漕いで渡り、ベルリンに潜り込むモンゴル人が引きも切らないのだそうである。
彼らは何一つ能がなく、結局、万引きをしたりして生活をしている。
おばあさんの長靴をひったくったとか、恋人にプレゼントするためにリップスティックを盗んだとか言う微罪なのだが、それで毎日のように、モンゴル人がベルリンで捕まって、警察に連れてこられる。
彼らはだいたいドイツ語はできないし、ロシア語もできないから通訳が必要なのだそうである。

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これは日本にとっては非常にややこしいことなのだが、モンゴル人がなぜ、1911年に倒壊寸前だった清朝から独立を宣言し、ロシアの応援を求めたのか、
第二に、1921年に人民革命を起こして、シベリアに行ったボルシェヴィキの赤軍の助けを借り、北京政府から来ていた中国軍を追い出したのか、
と言うと、その理由は、モンゴル人は心底から漢人が嫌いだからである。
とにかく、中国に組み込まれるぐらいならロシアに併合される方がましだ、というぐらい中国が嫌いなのである。

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ユダヤ人虐殺が爆発的に広がるのは、11世紀末に十字軍運動が起こってからのことで、ドイツのラインラント地方に始まった迫害は、フランス、イギリスに拡がり、
やや平和だったのはイタリア北部ぐらいのものだった。
そしてこの頃から、ユダヤ人は狭苦しいゲットーに押し込められ、特別な衣服を着せられ、土地の所有を禁止され、重税をかけられ、職業の自由を制限され、人間以下の扱いを受けるようになった。

ことに蛮行がひどかったのは第一次十字軍で、イェルサレムを占領すると、
当たるを幸い住民をなぎ倒し、生き残ったユダヤ人をシナゴーグ(会堂)に押し込めて火をつけて焼き殺した。

ーー中略ーー
ラインラント地方にはローマ時代から多くのユダヤ人が住んでいて、ドイツ語の方言のイディッシュ語を話していたが、
この人達は迫害を逃れて、13世紀から次第に東隣のポーランドに集まり、
そこからスラヴ諸国に拡がっていった。
そうしたわけで、世界のユダヤ人口の大半がポーランドと、
ポーランドを併合した帝政ロシアに集中することになった。


一方西ヨーロッパの諸国では、フランス革命とともにユダヤ人の解放が始まり、
ナポレオンがこれを各地に拡めて、自由を回復したユダヤ人たちは急速に現住地の社会に溶けこんでどうかしてゆき、キリスト教に改宗した人や、もはやユダヤ教にあまり関心を持たない人が多くなってきた。

ところが不幸にも、19世紀末になって反動が起きる。
資本主義経済が発達して新興の労働者階級が育ってきて、
これまた新興の資本家たちとの対立が激しくなってくると、
挟み撃ちにあった小市民たちは、生活の前途に深刻な不安を覚え始める。
これまた押し退けられそうになった旧来の支配階級がこの不安を利用して、すべての困難をユダヤ人のせいにして反ユダヤ感情を煽る。

ドイツでこの政策を大いにやったのがビスマルクだが、これはすぐ他国にも波及して、ユダヤ人解放の本地のフランスでさえ、
有名なドレフュス事件(1984年、参謀本部付将校だったユダヤ系のドレフュス大尉が、陸軍の機密書類をドイツに売った嫌疑で逮捕され、終身禁錮刑に処された。
作家ゾラなどが人権擁護の立場から政府を攻撃、国論は二分された。
のちに真犯人がわかり、1906年無罪となった)が起こったほどである。

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イギリスがユダヤ人のパレスティナ入植を阻止しようとしたのは、
もちろんアラブを敵に回したくなかったからである。
スエズ運河はイギリス帝国の生命線だが、
それはアラブの国のエジプトにあったし、アラブ諸国に産する石油はイギリス海軍の血液だった。

だからパレスティナ海岸を封鎖して之以上ユダヤ人が増えないようにしようと試みたのだが、
これはナチスの反ユダヤ政策の新版みたいになって、全世界の非難がイギリスに集中した。
それでとうとうイギリスも屈服して、国連の決議でイギリスの委任統治は廃止され、
かわってパレスティナは住民の比率に従って、ユダヤ区域とアラブ区域に分割され、それぞれ独立国になることになった。




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