前回の続き
こちら(地点C)で、ポツダム会議が行われました。
中は当時のままに保存されていて、見学できます。
日本語音声ガイドもあります。
どこどこの部屋に誰が泊まったとか、そういうのも教えてくれました。
戦後ポーランドの領土をどのようにするか話し合われました。
第一次世界大戦でドイツが敗北し、ポーランドはドイツの領土を一部割譲しました。
これが第二次世界大戦の原因の一つでもあります。
ソ連はソ連で勝った褒美がほしいですから、第二次世界大戦後にポーランドの東側を一部もらい、
ドイツ側の領土を一部ポーランドに与える、というよくわからない結論になりました。
こちらは、ドイツを米英仏ソで分割統治したことがわかる図
日本も危うくこんなかんじに分裂するところだったので怖いです
この写真の左下は、イギリスのチャーチルとアメリカのトルーマンです。
両者がいた、ということはまだチャーチルが解任される前ということです。
ソ連が終戦直前頃からその勢力を拡大し、中央ヨーロッパまで影響を及ぼし、
西側諸国を震え上がらせる結果となります。
戦後のソ連統治下の東ドイツの状況が描かれています。
食糧支援などが行われた一方、自転車が平気で取られたりしたようで、市民は安心できなかったようです。
ポツダム会議当時の新聞です。
もう戦争はほぼ終わりの兆候を見せています。
こちらは紙面の右に日本について書かれている。
当時アメリカでは意見が2つに分かれていて、
1つは穏健に南洋諸島などからの勢力を撤退させる
もう1つは、日本を完全に非文明化し、日本の組織を解体させようとする(7千万人を殺すと主張した人もいたようだ)
同じように天皇をどうするかでも2分化していたようです。
ジョセフ・グルーを中心に残さなければいけない、という人もいればそうでない人もいた。
地点Cのツェツィーリエンホーフ宮殿から地点Dのグリーニッカー橋へ向かいます。
公園を通って行くので、とても景色がよかった。
すごく寒かったのですが、
なぜか一人のおじいさんが素っ裸になってこの池で泳いでいるのをみました。
どうかしてるわ・・・・と思いました。
写真を撮るのはさすがにやめました
さて、グリーニッカー橋へ着きました。
こちらは、東西ドイツの境界線でもあり、
冷戦中に東西のスパイを交換したばしょでもあります。
この橋の辺りからバスに乗って近くの駅に行き、ベルリンへ戻りました。
この頃からドイツのご飯には全く興味がなくなったので、
ホテルで朝食が出ればビュッフェを、でなければ抜き
そして昼飯は抜いて夕飯を軽く食べる、というつまらない食生活になりました。