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元朝から清朝へ

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チンギス・ハーンの子孫は、帝国の各地に王家を創立したが、その一つが孫のフビライ・ハーンが建てた元朝である。
フビライ家のハーンたちは元朝皇帝を名乗ったが、シナに入っていわゆる「征服王朝」を建てたわけではない。
元朝の本拠地は故郷のモンゴル高原であって、大都(北京)は、ハーンの冬の避寒地であると同時に、漢人行政のセンターであったに過ぎない。

一三六八年、漢人の朱元璋が建てた明朝の軍が大都に迫り、
トゴ・テムル・ハーン(恵宗)はモンゴル高原に撤退するが、
元朝にしてみれば、シナの植民地を失っただけのことで、明朝に滅ぼされたわけではない。
フビライ家のハーンたちは、その後も長くモンゴル高原で活躍して、元朝の正統をもって自任していた。
この時代のモンゴル人は、明人を軽蔑して「イルゲン・フン」(隷属民)と呼び、
明朝を「イルゲン・ウルス」(隷属民の部族)とよんでいた。

フビライ家の元朝皇帝の正統の最後の継承者は、一七世紀のリンダン・ハーンであった。
一六三四年、リンダン・ハーンはモンゴル軍を率いてチベットに遠征したが、
その途中、甘粛省の草原で天然痘で死んだ。
リンダン・ハーンの未亡人スタイ太后は、追撃してきた満州軍に降り、息子のエジェイとともに、翌年、満州の首都の潘陽に至った。

このとき、スタイ太后の手元にあった玉璽が、ホンタイジの手に入った。
この玉璽は、かつて元朝の皇帝たちの持ち物であったもので、篆文(てんぶん)の「制誥之宝(せいこうしほう)」の四字が刻んであった。


その年末、エジェイを首席代表とする、ゴビ砂漠以南のモンゴル人の十六部族の四九人の領主たちが潘陽に集まって、満州の八旗の領主たちと協議し、全員一致でホンタイジをハーンに選挙した。
ホンタイジはこれを受け入れて、翌一六三六年、潘陽において即位式を挙げ、「大清」という国号を立てた。
これが清朝の建国である。
こうして、玉璽が象徴する元朝の正統と、シナを領有すべき「天命」は、満州人の清朝のものとなったのである。

このとき、ホンタイジが受けた称号は、
満州語では「ゴシン・オンチョ・フワリヤスン・エンドゥリンゲ・ハーン」、
モンゴル語では「アグーダ・オロシェークチ・ナイラムドー・ボグダ・ハーン」、
漢語では「寛温仁聖皇帝」という。
この称号が示すように、清朝皇帝は満州人とモンゴル人に対しては、元朝以来の大ハーンであり、漢人に対しては、秦の始皇帝以来の皇帝であった。

岡田英弘著作集Ⅰ 歴史とは何か より


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