著者は、元内務省官僚で、戦前から戦後まで衆議院議員だった方
ゾルゲ事件の尾崎秀実の手記などが入っていて、とてもよかった。
著者の主張は、戦前コミンテルンの影響により日本は道を踏み外していった、
というもの
<尾崎秀実の手記より>
私の立場から言えば、日本なり、ドイツなりが簡単に崩れ去って
英米の全勝に終わるのは甚だ好ましくないのであります。
(大体両陣営の抗戦は長期化するであろうとの見通しでありますが)
万一かかる場合になった時に英米の全勝に終わらしめないためにも、
日本は社会的体制の転換を以って、ソ連、支那と結び別な角度から
英米に対抗する姿勢をとるべきであると考えました。
この意味において、日本は戦争の初めから、
米英に抑圧せられつつある南方諸民族の解放をスローガンとして進むことは
大いに意味があると考えたのでありまして、私は従来とても南方民屋の自己解放を
「東亜新秩序」創設の絶対要点であるということをしきりに主張しておりましたのは
かかる含みをこめてのことであります。
<三一五事件>
私達の歴史でならう昭和初期の国内の事件といえば
五・一五事件、二・二六事件
あとは血盟団事件などがある。
しかし、私は三・一五事件を聞いたことがなかった。
著者はこの三・一五事件こそが、後の五一五事件、二・二六事件などにつながっていく
発端だと主張しています。
1928年、この三・一五事件は共産主義者、社会主義者を検挙すべく、治安維持法違反で530名検挙、
取り調べを受けたひとは五千数百名に及ぶ。
そのうち、東京・京都帝国大学、高専の学生が二千数百名存在した。
一般の国民は、「天皇様の噂をしただけで不敬罪になる。
いや天子様をじかに拝むと眼が潰れる」と思っていたのだが、
この天皇を倒して共産党の天下にしようという企てを持った者が、
日本に何百名も何千人も居たことを知って目を回すほど驚いた。
三・一五事件の大弾圧で一応壊滅したかに見えた日本共産党は、
忽ち再建闘争を開始し、一年を出ずして全国的な組織を盛り返してきた。
そこで内務省は翌1929年4月16日再び全国一斉に共産党関係者の大検挙をやった。
これがいわゆる四一六事件です。
290数名の起訴者をだしたが、党再建闘争は執拗に続けられ、
翌1930年にも2月以来約半年にわたって第三次大謙虚が行われ
4百数十名が逮捕された。
<青年将校>
濱口内閣の金輸出解禁を中心とした緊縮政策は、農産物価格の急激な値下がりとなり、
農村の不況は益々甚だしく、殊に東北地方の農村は目も当てられぬ惨状を呈すに至った。
ーー中略ーー
日本の陸軍は貧農小市民の子弟によって構成され、農村は兵営に直結していた。
将校もまた中産階級以下の出身者が多く、
不況と窮乏にあえぐ農村の子弟と起居を共にし、集団生活をする若き青年将校に、
この深刻陰惨たる社会現象が直接反映してきたのもまた当然である。
ここからいわゆる「青年将校」の出現となり、この青年将校を中心とした国家改造運動が
日本の軍部をファッショ独裁政治へと押し流していく力の源泉となったのであるが
この青年将校の思想内容には二つの面があることを注意する必要がある。
その一つは健軍の本義と称せられる天皇の軍隊たる立場で、
国体への全面的信仰から発生する共産主義への反抗であり、
今一つは小市民層および貧農の生活を護る立場から出発した反資本主義的立場である。
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大東亜戦争とスターリンの謀略 三田村武夫
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