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「日本の朝鮮統治」を検証する 1910-1945 ジョージ・アキタ ブランドン・パーマー

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言論テレビで紹介されていたので借りてきた。
これまでの様々な学者の意見を紹介しながら、
実際のところの日本の統治はどうだったのかの検証

文章が堅いし、最初に読むにはあまり適さないが、
比較検討したい方にはいいと思いました。

この本で初めて1937年に結審した帝人事件が、
当時の斉藤実内閣の倒閣を目的としたでっち上げの可能性が極めて高い、
ということを知りました。
名前だけは歴史で習ったが、中身を知りたいので、今度読んでみたい。

==========

長谷川好道の言によると、植民地統治の第一原則は、植民地は外国勢力の侵入に対して
本国防衛の要塞としての機能を果たさせることにあった。
一方、山縣有朋はこの原則を拡大し、「主権線」と「利益線」という用語で
国家の安全保障を定義している。
ロジャー・ハケット氏は、「主権線」とは「一国の領域の限界線」を意味し、
一方「利益線」については詳細に説明されていないものの、
これは日本の領土の境界線を超えた・・・つまり、
日本が「国家として支配的な影響力を行使すべき地域」あるいは
「敵対勢力下に入った・・・場合に、国家の安全を脅かす恐れのある、
国家防衛のための緩衝地帯、すなわち戦略的エリア」
を意味していたのかもしれないと説明している。
長谷川が指摘した第二の原則は、総督は(利己的な)経済開発を強調するのではなく、
むしろディヴァイン氏の言う日朝「双方を益する」方途としての経済発展の重要性を強調するべきということだった。
長谷川は山縣のように「補益」という言葉は用いなかったが、
「わが帝国の存続を保証する前提条件は「渾然」(つまり「調和」)と「融和」に基づき、
(日本と朝鮮を結ぶ)絆を強化することである」と断言していることからして、
その真意は明白である。

<大津事件>
大津事件は、津田巡査がロシア皇太子を襲った事件で、
司法は政治家からの圧力に負けずに死刑ではなく無期懲役を命じたことで
司法独立を示した有名な事件

井上毅は伊藤博文に対してロシア皇太子に対して天皇に対する襲撃とはみなせないため
刑法116条である大逆罪を適用してはいけないと述べた。
その理由として

一、ロシア皇太子は皇帝ではなく、皇族の一員に過ぎない。
国際法は、「一国の統治者に対する襲撃は、国家への襲撃と等しい」と記している。
しかし、皇太子は統治者ではないから、彼に対してなされた襲撃は、
ロシアに対する襲撃とは異なる。

二、したがって、(津田巡査は)暗殺未遂の罪で罰せられるべきである。
もしわれわれが、ここで意図的に刑法を曲げれば、
われわれは外国人を日本の法の下で裁く権利を永久に失うことになろう。

三、日本国刑法第116条そのものは、外国の統治者に適用される性格のものではないし、
外国皇族の家族の場合は、なおさらである

<治安維持法>
ミズーリ大学歴史学部のリチャード・H・ミッチェル教授は次のように言っている。

日本における思想統制は異質のものだった。
・・・治安当局による大規模なテロルの手法は用いられず、
治安維持法違反のかどで処刑された日本人は
(ドイツ紙の記者でソ連のスパイだったリヒャルト・ゾルゲの事件に連座して
逮捕・処刑された尾崎秀実以外には)一人もおらず
・・・
強制送還も強制労働もなかった、・・・
(このように寛大な政策は)日本人民は天皇の下ですべて同胞であるという感覚、
そして矯正が不可能な思想犯はいないという感覚(に基づくものだった)

<朝鮮の小学校>
バージニア州マジソン大学歴史学部助教授のマイケル・J・セス氏はその著
Education Fever : Society, Politics, and the Pursuit of Schooling in South Korea
において、1904年当時、「学校教育は主に首都ソウルに限られて」おり、
「しかもそこには小学校がわずか7,8校あるのみ」だったと記している。
人口1200万人の朝鮮で、近代的な公立学校に通っている生徒の数は500人程度だった。
公立学校以外に私立学校が数百校あったが、大半はミッション・スクールだった。

初めはこのようにささやかだったが、朝鮮の公立小学校の生徒数は、
1910年の2万200人から、1937年には約45倍の901万1209人に増えている。
また、私立の儒学塾を除く全ての学校に通学している生徒数は、
1910年の11万800人から、1937年には約11倍の121万1400人に増えている。
全生徒の4分の1が女子だった。
これらの数字は長足の進歩を示すものだが、
それでも学齢に達した児童のうちの3分の1が学校に行けなかった。
朝鮮総督府は太平洋戦争のさなかに、
1946年には朝鮮に義務教育制度を導入するとの計画を立てていた。

ーー中略ーー
朝鮮総督府は「漸進主義」を実践する中で、中高等教育を発展させる前に、
あらゆる村落にまず小学校教育を浸透させることで精一杯だった。
1939年には、単科大学および師範学校在籍の学生数は6313人。
それに加えて、合計206人の学生が当時の朝鮮では唯一の総合大学校だった
京城帝国大学(創立1925年)に在籍しており、
さらに数千名の朝鮮人学生が日本で教育を受けていた。
1942年の時点で、約1万四千人が日本で中学校に通っており、
さらに6771人が日本の単科大学あるいは総合大学で学んでいたのだった。

こうした記録を見ると、アフリカや東南アジアの植民地の実態をほんの少し検証しただけでも、
日本が教育面で遺した実績は最高の部類に属することが分かる。


ーー中略ーー
ベトナムで教えるフランス人教師の給与は、
ベトナムで勤務するフランス人公務員と同レベルであり、
同じ仕事をこなすベトナム人教師たちの三倍だった。
フランス人には住宅手当と有給休暇が与えられたが、ベトナム人はこれらの特典とは無縁だった。

朝鮮においては、ボーナスのような特典は本国にいる日本人を
朝鮮で働くように説得する際に使われたが、
朝鮮において日本人が得た給与と特典はベトナムのフランス人の場合に比べると、
つましいものだったのである。

<当時のプロパガンダ映画に見る対朝鮮政策>
1941年に公開された親日映画「志願兵」
この映画の中で朝鮮の人々は、伝統的な民族衣装で登場する。
この映画は、プロパガンダの目的で制作されたものではあっても、
1941年の段階で総督府は、朝鮮人の文化を抹殺することによって
彼らを組織的に抑圧しようとはしていなかったことの証左となる。



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