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鄧小平 下 エズラ・F・ヴォーゲル

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下巻は、鄧小平が中華人民共和国のトップになってから引退して死ぬまで

メインテーマは経済政策、対米外交と、当然ながら天安門事件です

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腐敗をもたらす構造的原因の一つは、二重価格制であった。
二重価格制を悪用し、一部の政府や党の幹部は安い公定価格で商品を購入し、
はるかに高い市場価格で転売した。

であるならば、公定価格を廃止することで不正行為の温床を断つことができる。
大胆不敵な戦士と化した鄧は価格統制の撤廃めがけて突進し、
価格改革を三年から五年で完了させると宣言した。
7月、アルコール類とタバコの価格統制が解除されると、価格は200%以上も跳ね上がった。
だがそれでも、鄧の前進を押しとどめることはできなかった。

ここまで
これが起きたのが1988年、天安門事件の前年です。
このインフレによる社会の不安定さが天安門事件を起こした本当の要因だろうと考える。
一般の人は民主主義などのイデオロギーにはあまり関心がなく、
お腹が膨れれば満足するものだから

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軍人の大規模削減は1985年に始まり、88年には基本的に完了した。
80年から89年にかけて、地方の文民組織には退役軍人154万人の文民職を手配するよう圧力がかかった。

ーー中略ーー
除隊させられる兵士たちの就業機会を探すために、鄧小平は特別な訓練コースを提案した。
1980年3月、彼は中央軍事委員会の常務委員会で次のように述べた。
「職がなくなる幹部達に向けて、多様な訓練コースを設けたらよいと思う。
どのような訓練がよいか?
彼らが専門的な職業に就いたり、これから始める商売に役立ったりするようなものがいい」。

ここまで
これを読んでいて、中国のIT機器メーカー、ファーウェイ(華為)が頭に浮かんだ。
1987年に設立されたこの会社の社長、任正非という人民解放軍出身者だからです。


===============
(天安門事件の1989年)6月4日直後の数週間が過ぎ、差し迫った危機が去ると、
鄧小平ら指導者たちは政府と共産党に対する若者の反発というより大きな課題に取り組み始めた。
6月4日の原因について議論した時、鄧は若者に「教育」を施していこなかったと指摘した。
彼の言う教育とは、毛沢東の言う「政治教育」のことだった。
とはいえ、鄧の頭にあったのは凝り固まった「イデオロギー」中心の教育ではなかった。
その代わり、彼は公民としての道徳的な訓練を受けさせようとした。

ーー中略ーー
中国の若者の気持ちをつかむために、マルクス=レーニン主義や毛沢東思想のほかになにがあるだろうか?
答えは明らかだったーーつまり愛国主義である。
海外の帝国主義者に屈辱をなめさせられた100年の歴史を強調した愛国主義教育は、
1940年代には宣伝工作の主要テーマで、これがなくなったことは一度もなかった。

ただし、50年代以降に中国が社会主義建設を進めると、その役割は二次的になり、
80年代に鄧小平が西側とより緊密な関係を築こうとした時には影が薄くなった。
ところが、西側諸国が制裁を課した89年以降、諸外国の制裁に対する愛国主義的な反応が広く見られるようになった。
西側の多くの人々にとって、中国への制裁は6月4日に武力を行使した中国の指導者を攻撃するためのものだったが、中国の人々にとってこれは全中国人を傷つけるものだった。
愛国主義「教育」は、第二次世界大戦中に共産党員達が
愛国心とナショナリズムに訴えて抗日への支持を集めたのと同じように、
ナショナリズムを共産党に結びつけた。
裏返せば、共産党への批判は即、非愛国的とみなされた。

ここまで
反日活動が国内事情によることを端的に示す


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