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明治天皇 下巻 ドナルド・キーン

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明治天皇〈下巻〉/新潮社
¥3,360
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上巻はこちら
下巻は、日清日露戦争、韓国併合などがメインで明治天皇崩御・乃木希典の死までを描いている。

ロシアの皇太子ニコライが日本人によって斬りつけられた
大津事件が起きた時、明治天皇はニコライへの見舞と謝罪を兼ねてロシアの軍艦に乗った。
ニコライから軍艦の艦上にて午餐に招待されたからです。
そのとき、大臣が拉致されることを心配したことに対して明治天皇は次のように答えた。
「朕応(まさ)に行くべし、露国は先進文明国なり、
豈(あに)敢えて汝等の憂慮するが如き蛮行を為さんや」


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この本を読む限り、不平等条約の改正に全員が賛成していたわけではないようです。
当時、列強からは条約改正の代わりに、外国人への内地雑居を許すことを求められていたからです。

つまり、外国人の内地雑居を許すよりは現状の維持を望む現行条約励行派が多く存在したようです。

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また、明治天皇は日清戦争に反対だったようです
日清戦争にかかる天皇の宣戦の詔勅が公布された直後、
宮内大臣子爵土方久元が神宮ならびに孝明帝陵に派遣する人選について明治天皇に訪ねた際、
明治天皇の応えは
「その儀に及ばず
今回の戦争は朕もとより不本意なり
閣臣等戦争の已むべからざるを奏するにより、これを許したるのみ(後略)」

だった。
立憲君主国らしく、内閣の決定に従いはしたが、本意ではないと言っており、
このころから政治には口をあまり出さなかったことがうかがえる

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ポーツマス条約におけるロシア団を除く大半のロシア人は講和そのものに反対だったようです。
特にロシア皇帝は講和が結ばれたことを聞いて
「夜に入って、ウィッテから電報が届いた。
講和会議が終わった、という報せだった。
それから一日、私はまるで呆然自失の体で歩き回った」と日記に書いている。

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日露戦争後の数年間に大人に成長した世代には、疎外感と言ったものがあるように感じられる。
疎外感は多くの場合、戦時中の犠牲者から受けた衝撃や、戦果に対する失望感から生じた。
しかしのちに、それは政治においては社会主義のような形をとり、
これがさらに青年における伝統の欠落を嘆く年配世代の憂鬱の一因となった。
山崎正和は、この時代を「不機嫌の時代」と名付けている。

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安重根は、反日主義者ではなかった。
安重根が密かに最も高く評価していた人物は、疑いもなく明治天皇だった。
伊藤博文に対する安重根の最も痛烈な告発の一つは、伊藤が意図的に天皇を欺いたということだった。

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明治43年(1910)8月22日、日韓併合が両国の調印した条約で正式に宣言された。
この併合に拍車をかけたのは、10か月前にハルビンで起きた伊藤博文の暗殺事件だった。
最も尊敬すべき日本人政治家を韓国人が殺害した事実は、
韓国人が無法で自制心がないとする日本人の国内感情を疑いもなく強めた。
またもし伊藤が暗殺されていなかったならば、伊藤の存在は併合を唱える者たちへの抑止力となって働いていたのではないかと思われる。
もとより両国を併合する決断は、すでに一年前になされていた。
日本政府が待っていたのは、計画を実行に移す格好の機会だけだった。

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最終的に韓国政府に提示された条約案は、8か条から成っていた。
条文の主眼は、韓国皇帝と貴族に統一後の優遇を保証することにあった。
この約束は、総じて日本側によって守られた。
韓国皇族と貴族たちは日本の爵位を得たし、これまで同様の生活を維持して行くに十分な歳費を受けた。
譲位後、韓国皇帝と太皇帝は相変わらずソウルの昌徳宮、徳寿宮で生活を続けた。
皇太子の李垠は日本で優れた教育を受けた後、大正9年に梨本宮の長女方子(まさこ)と結婚した。
日本の陸軍士官としての優れた経歴の中で、李垠は第一航空軍司令官の地位にまで昇進した。

ーー中略ーー
覚書が約束していたことによれば、韓国貴族は従来の格式に応じて日本の華族の爵位を与えられ、また日本の天皇の寛大さのおかげで歳費は事実増額されることになるのだった。
現在の韓国内閣の大臣は任期が切れるまで現職のままであり、その後は余生を快適に過ごせるだけの賜金を与えられることになる。
一般士民は、生業をえるための授産基本金を与えられるのだった。

韓国の総理大臣、李完用は、全国民に利益を約束する日本の方針について長い説明を聞いた後、二つだけ寺内に要請があった。
一つは統一後もなお韓国の国号を残すこと、今一つは韓国皇帝に王の尊号を許すことだった。
李は、もとより併合を歓迎していた。
しかし李が明らかに恐れていたことは、国号と王の尊号が保持されなければ韓国の主体性が失われるということだった。
これに対して寺内は、次のように応えた。
国号と王の尊号を残すことは、統一後の韓国の現実に反することになる。
もし両国が一つになれば完全に独立した国であることを示す国号は不適切であり、
また日本の天皇が併合された両国を統治する以上、王の果たすべき役割はない、と。
李は腹心の農商工部大臣趙重応と協議したいと猶予を乞い、寺内はこれを承諾した。

趙(日本語が堪能だった)は同夜、寺内を官邸に訪ね、李と協議した結果を次のように報告した。
韓国の国号と王号を保持することで双方の意思が一致しない限り妥協の余地はない、と。
李と趙が考えていた併合とは、むしろオーストリア=ハンガリーやスウェーデン=ノルウェイのように、両国が独立国の現状を保持したまま合併することを意味していたようだった。
寺内は、二人が日本の目的を理解していないことに驚いた。
しかし最終的に、国号を旧名の「朝鮮」に改めることで同意した。
王の尊号を保持するという要請に対しては、皇帝が「李王殿下」を称することを許すところまで譲歩した。
「王」の尊号は、「国王」と同じではなかった。
日本では、「王」は皇子の意味に過ぎなかった。
しかしこの譲歩は、韓国人の傷ついた自尊心を満足させたようだった。



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