![]() 【送料無料】ヴェトナム新時代 [ 坪井善明 ] |
今度旅に行くベトナムの現代史を見る上でとても役に立ちました。
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2008年現在、ヴェトナム全土で約500万人がダイオキシンの影響を被っていて、
枯葉剤被害者は300万人以上だと推定されている。
現在でも、クアンチ省では約3000人の子どもたちが枯葉剤の後遺症に苦しみながら必死に生きている。
手足が四本ずつある「先天性四肢奇形」、頭がよじれた子、手の曲がった子、知的障害のある子、言語障害のある子などさまざまな障害児がいる。
出産時に無頭症や水頭症ですぐ死亡するケースも多いという。
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坂田雅子監督の「花はどこへいった」というドキュメンタリー映画が紹介されていた。
同じ監督が著者の、同タイトルの本もある。
今度見てみたいと思った。
監督の夫はフォトジャーナリストで、癌で亡くなり、原因を調べるとベトナム戦争時の枯葉剤にあることがわかってくる、という内容
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ベトナム戦争を最も広くとると、1954年から1975年としている。
通常私達が考えるベトナム戦争はアメリカとベトナムの戦いで、1960年から1973年
1954年とは、フランスがディエンビエンフーの戦いで大敗して、
ジュネーヴ協定によって最終的にヴェトナムから撤退した年
最も広く取る立場の人は、米国がフランスに次いで戦争を継続したものとみなしている。
そして、最後のアメリカ人がサイゴン(現ホーチミン)からヘリコプターで脱出する1975年4月30日を終点とする。
これは、1946年から始まったフランスとの戦いを第一次インドシナ戦争と呼び、
連続してアメリカと戦った第二次インドシナ戦争をベトナム戦争とみなす連続史観です。
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ベトナムは1978年から89年までカンボジアへ侵攻した。
が、現地ではこれは「カンボジアからの要請を受けた義勇軍の派遣であり、断じて侵攻ではない」と考えられている。
当時カンボジアではポルポトによる常軌を逸した圧政・虐殺が行われていた。
著者は、次のように考えている。
「侵攻」というのは、当時の国際社会はヴェトナムの行動を「侵攻」と認定して、経済封鎖などの措置をとったからだ。
このため、ヴェトナムは11年間国際的な孤立を招き、経済がより疲弊した。
たしかに、ポル・ポト派の非道ぶりは常軌を逸していた。
ヴェトナム軍のお陰で、命を救われたカンボジア人がたくさんいた。
しかし、客観的に見て、11年間の駐留は長すぎた。
カンボジアを自分たちの影響力のもとに置こうとするヴェトナムの意図がそこに現れている。
当時を知るカンボジア人に聞いても、「11年間のヴェトナム軍の駐留は長すぎた。早く帰って欲しかった」という。
少なくとも、国際社会はヴェトナムのカンボジアへの実効支配の意図を嗅ぎとって、そのように解釈した。
そこに、「侵攻」という言葉を使う理由がある
この国際社会という中には、中国の意図と観点が大きく影響している。
中国が「ヴェトナムを懲罰する」と称して中越戦争を起こした理由として、
カンボジアへのヴェトナム軍の進出を「侵攻」と認定しなければならなかった。
中越戦争は中国のイニシアティブと米国の承認のもとに、ヴェトナムを叩くための戦争だった。
大国の横暴という非難を避けるための自己正当化の理由として、ヴェトナムの行動は断じて「侵攻」でなければならなかった。
だが、その中国サイドの解釈を許すような傲慢さが、ヴェトナム戦争に勝利した当時のヴェトナム共産党指導部にあったと思う。
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ヴェトナムの国際的なイメージを改善するのに役立った二つの大きな政策があった。
一つは1987年に制定され、88年1月から施行された外国投資法であった。
外国法人の投資を奨励するための法律である。
第6回党大会でのドイモイ政策の採択を受けて、まず最初に作られた法律の一つがこの外国投資法である。
とくに西側先進国に関心を持ってもらい、将来的には現地に工場を作るなどの投資を呼びかけるための法律で、10年間の免税及び減税など進出企業に有利な条件が提示してあった。
国際社会は好感をもって受け入れた。
だが、それよりもインパクトの大きかったものにカンボジア和平がある。
前述のようにヴェトナムの国際的な孤立を招いた主要な原因が「カンボジア侵攻」にあったからであり、この問題の解決抜きには国際社会への復帰もありえなかった。
ASEAN諸国のリーダーシップもあり、カンボジアのシハヌーク殿下とフンセン首相の会談が積み重ねられた。
91年に国連主導のカンボジア和平協定が関係者と関係国によって調印された。
そして92年から93年にかけて、明石康氏を代表とする国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が総選挙の管理を中心とする暫定統治を行った。
93年9月、選挙の結果を受けて新生カンボジア王国が成立した。
シハヌーク殿下が国王となり、カンボジア人民党(CPP、総裁=チアシム)と
フンシンペック(FUNCINPEC、独立・中立・平和・協力カンボジア民族統一戦線、総裁=ラナリット殿下)の双頭制で出発した。
この舞台裏で、ヴェトナムはインドネシアと協力しながら、和平協定の調印に尽力した。
86年9月にカンボジアからの一方的な撤退を宣言して、89年9月26日までに最大20万人に及ぶ駐留軍を引き上げた。
これが和平プロセスの引き金になった。
カンボジア和平の実現を受けて、日本政府は92年から79年度以来凍結されていた
ヴェトナム向けODAを再開した。
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英語や仏語に翻訳された「ホーチミンの遺書」というものもある。
それを読むと、ホーは
「死後、遺体を焼いて灰にして、ヴェトナム各地でそれを撒いてくれ」
と要求している。
首都の中心地に遺体で展示されることを、本人は望んでいなかったことは自明である。
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現地に立つと、日本の存在感はかえって薄くなっているのを感じる。
まず、韓国の進出が目立っている。
韓国政府が国策として各分野での進出を支援しているからだという。
たとえば、テレビの韓流ドラマは毎日前八チャンネルのうち三チャンネルで放映されていて、
歴史物もあれば現代物もあり、大流行している。
韓国のテレビスターは大人気である。
逆に、日本のテレビドラマは今ではほとんど見られない。
というのも、日本のドラマの版権は非常に高額だが、
韓国のTVドラマは韓国政府からほとんど無料で使用許可が与えられているからである。
ハノイでもホーチミン市でも、中心部に韓国企業や韓国ホテルの高層ビルが建設されていて威容を誇っている。
また韓国企業は宣伝広告に力を入れていて、電機メーカーのLGなどは前年の利益の10%を宣伝広告にかけるくらいの熱の入れようである。
したがって、さまざまな韓国企業の宣伝広告が国中に貼りだされているといってよいくら目につく。
街を走るバスは、昔は日本製だったが、今ではほとんど韓国製のHYUNDAIである。
さらに、北部では電気部品、南部では繊維や履物の生産を行っている韓国系企業が多いが、
ハノイでもホーチミン市でも現地に暮らす韓国人の数が日本人を圧倒している。
2008年現在、ホーチミン市に三万人以上、ハノイに二万人以上暮らしている。
それに対して、日本人は各都市に2500人くらいが居住している。
ここまで
この本は2008年のものだが、現在はどうなのだろうか