未来世紀ジパングでポーランド特集があって気になって借りてきた。
孤児の話はすごく短かったが、
第二次世界大戦下の関係については詳しく書かれていて良かった。
===========
1939年8月23日の独ソ不可侵条約の調印は、一触即発の状態であるという最後の警告であった。
日本はこれをドイツの背信行為および1936年の日独伊防共協定の破棄と受け取った。
こうした状況の中で、日本政府は同盟国とその情報をもはや全面的には信用せず、
ソ連のみならずドイツも十分に観察できる在外公館の設置を決定する。
こうして選ばれたのがカウナス(リトアニア)であった。
============
ドイツがポーランドに侵攻し、ユダヤ人が避難しようとしてたとき
慣例に従って、彼等は日本の通過ビザを取得することはできたが、
それには、渡航予定国のビザかそれに準ずる証明書を所持していることが条件である。
ほんの何人か、アメリカ合衆国の宣誓証明書を持っているものがいたが、
多くは日本から第三国へ出国するという根拠を示す書類を何も持ち合わせていなかった。
ーー中略ーー
私はソ連領の通過に必要なソ連の通過ビザに関する情報を入手した。
ソ連領事は私に、もし日本が先にビザを発給するのであれば、ソ連もビザを発給する用意がある、と説明した
(以上、杉原千畝より)
ここで付言しておく必要があるのは、ソ連のビザを入手するためには、
カウナスから日本までの乗車券も、ソ連の国営旅行社「インツーリスト」にて
外貨払いで予約購入しなければならなかったことである。
乗車券は当時約160ドルもしたから、だれもが買える値段ではなかった。
ここまで
最終的にこの問題はオランダのグッドウィル領事が、オランダ領の南アメリカの海上にある島
キュラソーに行けるビザを出したことで解決した。
============
ストックホルム駐在武官に任命された小野寺信は、ポーランド人のイワノフと交流が深かった。
イワノフがストックホルムを去ってからのある夜、夕食後、居間に座っていると、
玄関の郵便受けにポトリと物の落ちる音がした。
急いでいってみるとまさにイワノフと約束したとおりベルク(イワノフの偽名)からの手紙であった。
ーー中略ーー
この筋の情報で忘れることのできないのは、1945年2月のヤルタ会談の後の報告であった。
「ソ連はドイツの降伏後3ヶ月を準備期間として対日参戦するという密約ができた」
この重大情報に小野寺が驚き、私(小野寺の妻)も特に心して暗号作業をした覚えがある。
大本営からそれについて別に何の反応もなかったが、それは当時中央に着いているものと思い込んで疑わなかった。
事実はドイツの全面降伏が5月8日、
ソ連の対日宣戦布告が8月9日であったからまさにヤルタ会談のとおりであった。
バルト海のほとりにて 小野寺百合子 より
↧
日本・ポーランド関係史 エヴァ・パワシュ=ルトコフスカ アンジェイ・T・ロメル
↧