アメリカの外交官の戦前から戦後における回想録
著者は日本語ができるということで、日本に関わる様々なミッションに関わっていた。
読んでいて思ったが、かなり左がかっているような印象を持ちました。
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二・二六事件
日本人は、二月二十六日の暗殺を、日本の歴史における他の二つのドラマチックな事件、
すなわち1703年の47士の仇討ち(忠臣蔵のこと)と、
徳川幕府末期の1860年に水戸浪士達が大老井伊直弼を暗殺した事件と結びつけた。
三つとも雪の降った朝に起こっており、主君あるいは天皇に対する忠節を全うするという決意を表明して行動が起こされていた。
ここまで
今まで考えたこともなかったが、さもありなんと思う。
二・二六事件の後の国民の印象がそれほど拒絶した様子もないからです。
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1041年12月8日
いわゆる屈辱の日が、日本人すべて、日本的なもの全てに疑いの目を向けさせた。
数千人の米国市民を含む10万の日本人をカリフォルニアから強制的に追放し、
戦争が続いている間、再配置センターという体裁のいい名で呼ばれていた強制収容所に抑留するという、弁護の余地のない行動がとられた。
そのうちだれかが、太平洋の地図を眺めているうちに、約三万人の日本人がペルーの海岸地帯にひっそりと暮らしているという驚くべき事実を発見した。
そして、そこは敵の浸透、秘密の交信、その他ありとあらゆるスパイ活動が、罰せられることなく行われ得る重要な戦略的地域であり、ペルーを何とかしなくてはいけない、ということになった。
米国は直ちにラテン・アメリカ諸国に対して、枢軸国の人間を軟禁するよう申し入れた。
そこで1942年1月にリオデジャネイロで米州外相会議が開かれ、政治的防衛に関する緊急諮問委員会が設置された。
この委員会が1942年中に行った勧告の中には、
「危険の恐れのある外国人を管理し、枢軸国人を抑留し、敵性外国人の帰化を制限し、
枢軸賛同者の帰化を取り消す」措置が含まれていた。
著者は日本語ができるということで、日本に関わる様々なミッションに関わっていた。
読んでいて思ったが、かなり左がかっているような印象を持ちました。
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二・二六事件
日本人は、二月二十六日の暗殺を、日本の歴史における他の二つのドラマチックな事件、
すなわち1703年の47士の仇討ち(忠臣蔵のこと)と、
徳川幕府末期の1860年に水戸浪士達が大老井伊直弼を暗殺した事件と結びつけた。
三つとも雪の降った朝に起こっており、主君あるいは天皇に対する忠節を全うするという決意を表明して行動が起こされていた。
ここまで
今まで考えたこともなかったが、さもありなんと思う。
二・二六事件の後の国民の印象がそれほど拒絶した様子もないからです。
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1041年12月8日
いわゆる屈辱の日が、日本人すべて、日本的なもの全てに疑いの目を向けさせた。
数千人の米国市民を含む10万の日本人をカリフォルニアから強制的に追放し、
戦争が続いている間、再配置センターという体裁のいい名で呼ばれていた強制収容所に抑留するという、弁護の余地のない行動がとられた。
そのうちだれかが、太平洋の地図を眺めているうちに、約三万人の日本人がペルーの海岸地帯にひっそりと暮らしているという驚くべき事実を発見した。
そして、そこは敵の浸透、秘密の交信、その他ありとあらゆるスパイ活動が、罰せられることなく行われ得る重要な戦略的地域であり、ペルーを何とかしなくてはいけない、ということになった。
米国は直ちにラテン・アメリカ諸国に対して、枢軸国の人間を軟禁するよう申し入れた。
そこで1942年1月にリオデジャネイロで米州外相会議が開かれ、政治的防衛に関する緊急諮問委員会が設置された。
この委員会が1942年中に行った勧告の中には、
「危険の恐れのある外国人を管理し、枢軸国人を抑留し、敵性外国人の帰化を制限し、
枢軸賛同者の帰化を取り消す」措置が含まれていた。
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