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岡田英弘著作集Ⅰ 歴史とは何か

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私の好きな歴史学者、岡田英弘さんの著作集
第一巻は「歴史」がテーマ

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ヘーロドトスの「ヒストリアイ」の根底には二つ考えがあって、
一つは、歴史は二つの陣営の対立と抗争によって引き起こされる変化を描くものだということ、
もう一つは、それには正義の側の勝利があって、歴史はめでたし、めでたしで終わるということである。

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日本人だけでも二つの矛盾する歴史観から自由になり、東西両方とも同じ論理で説明できるような歴史をつくらなければいけない、ということである。
それは可能だと私は思う。

私なりに歴史を定義すると、歴史は過去に起こった事柄の記録ではない。
歴史というのは世界を説明する仕方なのである。
その場合、目の前にある現実の世界だけを対象にすると、歴史ではなくなる。
今は感じ取ることができない過去の世界をも同時に対象にするのが歴史なのである。

ところが、ストーリー(物語)のない説明というのは、人間の頭に入らない。
だから、過去の世界と現在の世界を同時に説明するストーリーが必要になってくる。

しかし、現実の世界にはストーリーがない。
ストーリーがあるのは人間の頭の中だけだ。
歴史とは無数の偶然、偶発事件の集積に過ぎない。
一定の筋書きがあるわけではない。
一定のコースもないし、一定の方向もないし、一定の終点もない。
あるはずがないのである。
しかし、人間の頭でそれを説明するためには、筋書きがいるのである。
これは矛盾だが、このことをまずしっかりと把握してからでないといけない。

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マルクスは「資本論」では、一つの発展段階から次の発展段階への移行を促す原動力について、まったく説明していない。

まず原始共産制というものがある。
人間は決まった結婚相手もなく、裸で走り回り、出会った男と女が子供をつくっていた。
住む場所も決まっていなかったし、財産もなかった。
これはじつにうっとりするようなユートピアで、そんな社会に生きたらどんなにいいだろうと思うが、そういうところがマルクシズムの怪しい魅力なのである。

その次に、奴隷が主な生産手段であった古代の奴隷制がある。
それから、中世封建制を経て現代資本制に移行するのだが、そこにマルクシズムの一つの弱点がある。

マルクスは、資本の本源的蓄積があって、それによって資本主義に移行するのだ、と説明している。
ところが、これが曲者なのだ。
資本の本源的蓄積とは何かというと、要するに、大航海時代のことなのである。
ヨーロッパ人が海外に出かけ、あちらこちらで収奪し蓄積した富が基礎になって、資本制に移行するということなのである。
そうすると、封建制を脱して資本制に移行したければ、つまり近代化を遂行したければ、
どこの国も一斉に海外に向かって侵略に乗り出さなければならないことになる。
もしそれを否定すれば、中世から現代への移行は、西ヨーロッパの一部でしか起こりえなかったことになる。
つまり、これは普遍的な現象ではないということになる。

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あとになってみると、そのとき、とるに足りないこととして記録しなかった方が、意味を持ってくる、ということがある。
経験が文字になるときに選択がすでに働いているということは、その人の主観ですでに加工されているということである。
個人個人の主観を超えた客観というのはありえないのだから、歴史をまとめるというのは、たいへんあやうい仕事になってくるわけである。

ただし、一つだけはっきりしていることがある。
良い歴史、悪い歴史を判断する際、大切なのは、どの史料、つまりどの他人の経験も、
矛盾なく説明できなければいけない、ということである。
矛盾が少なければ少ないほど良い歴史になる
、ということだ。
その良い歴史には、道徳的価値判断は一切入ってはいけない。

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国民国家は十八世紀末に、アメリカ独立とフランス革命という二つの革命で初めて発生したものである。
その後、ナポレオン戦争における国民軍の大成功で、自衛のために世界中の君主が国民国家に模様替えをした。
最後の仕上げが1848年の市民革命で、それでほぼ国民国家というのは固まるわけである。
その年が「共産党宣言」の出た年なのである。

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日本軍は、フィリピンでもビルマでもインドネシアでも、至る所で占領と同時に、独立国をつくらせる準備にとりかかった。
あの戦争が大東亜解放の聖戦であるというのは宣伝ではあったが、同時に本当でもあった。
その土台があったものだから、連合国が日本軍を降伏させた後でも、彼らを元の植民地のステータスに戻すことができなかったのである。


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民族の正体は何であるかというと、きわめて漠然としていて、つかみどころがない。
複雑かつ曖昧模糊としたもので、吟味していくと最後には何のことかわからなくなる、という性質のものなのである。
だから私は繰り返し、これは歴史の産物である、と言っている。

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西ヨーロッパは、地中海文明の系列に属する。
だから、ヘーロドトスの歴史観と、「旧約聖書」、「新約聖書」の歴史観を両方ない混ぜにしたユダヤ・キリスト教的な歴史観を持っている。
歴史もちゃんと持っている。

そのいちばんいい例がイギリスの憲法である。
イギリスに成文憲法がないことはよく知られているが、イギリスのコンスティチューション(憲法)とは、
長い間のいろいろな条例やら判例やらが積み重なったものである。
われわれは、憲法は成文であるものだと思っているが、
世界で最も古い憲法を持ったイギリスには、そういうものはない。
ということは、歴史そのものが国体だということである。

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清朝の首都は北京だとわれわれは思っているが、それは半分しか正確ではない。
じつは清朝の皇帝は冬は北京にいるが、春から夏の間は南モンゴルを旅行して歩いている。
それも全宮廷員を引き連れて移動して歩いている。
そして、漢人以外の同盟部族、モンゴル人とかチベット人とか中央アジアの人たちなどが来る場合、
あるいは英国王の使者のマカートニーなどが来たときもそうだが、必ず熱河(今の承徳)の離宮に行って会う。
熱河ではモンゴル式の生活をしている。
そして称号もハーンなのである。
皇帝ではないのだ。

また、大清帝国の公用語は満州語であって、漢語ではない。
もっとも大事な文書は、満州語で書かれている。
ただ漢人相手の通信文が漢語で書かれているだけである。

ともかく、清朝の皇帝というが、皇帝と称しているのは漢人に対してだけなのである。
それ以外の民族に対しては、ハーンである。
これは、満州人の君主が、満州人のハーンとモンゴル人のハーンとチベット人のハーンと、
オイラト人、ウイグル人のハーンのすべてを兼ねている、ということである。
その一つの称号が皇帝であって、それは漢人向けの称号であるということなのだ。
これはまったくモンゴル帝国そのままである。

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中華料理一つをとってみても、漢人がんんい肉を食べるようになったのは、モンゴル時代からである。
それ以前の漢人の料理などというものは、じつに貧相なものである。
いろいろな時代のレシピが文献に残っているが、こんなまずいものを食っていたのか、
と思うようなものばかりである。
それがモンゴル時代を境にして、突然食生活が豊かになる。

シナを支配した夷狄は、つねに漢人よりも高い生活水準を保っていた。
それは当たり前だ。
支配階級なのだから。
そういうわけで、漢人が自分たちの文化だと思っているものは、じつはほとんどが夷狄が持ち込んだ文化なのである。
それを後生大事に持ち伝えているだけだ。
これを中国人にいうと怒り出すので、言わないほうがいい。

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民族などというものは、実際には存在しない。
あたかも実体のあるもののように扱われがちだが、本当は純粋に観念の産物である。

そればかりではない。
現代日本語の多くの言葉がヨーロッパ語の翻訳であるのと違って、「民族」は、二十世紀の初め、明治の末の日本で生まれた、純国産の言葉である。
だから日本語の「民族」には、それに当たるヨーロッパ語がない。
現代中国語の「ミンズー」も、韓国語の「ミンジョク」も、日本語の「民族」の借用である。






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