維新三傑の一人である木戸孝允の日記
以前、青山繁晴さんから木戸孝允に日記があることを伺い、機会を見て借りてきました。
全3巻で、この一巻は明治元年(1868)4月から、明治4年(1971)2月まで
木戸孝允の日記を見て思ったのが、この時期の日本語の書き方はまだ変化の途中だったと思われること。
おそらく江戸時代はほぼ漢文だったと思います。
明治の夏目漱石の作品が出る辺りから現代の日本人に馴染みのある日本語となると思います。
この時期の彼の言葉を見ると、1968年から1971年までを見るだけでかなり変わっています。
ひらがなの数が増えてくるのです。
最初の頃は、ひらがなはあまり出ず、いきなり漢文調になって語順も変わったりしています。
当然ではありますが、漢字は旧字体です。
一番、読みづらいのは句読点が無いことです。
文がどこで区切られるかが全くわかりません。
また、当時の日本では時刻を表す場合、「三時」ではなく「三字」のように「字」という言葉を使っている
この第一巻の辺りは、まだ戊辰戦争の最中です。
しかし、木戸孝允自体はこれに関わっていないのか、特段これらについて言及しているようには思えません。
正直、この時期の日本はまだ旧暦を使用していたので、この日記の日付が旧暦なのか、現在の暦なのかがよくわかりません。
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明治元年八月九日の日記より一部抜粋
皇國をして宇内に卓立せしめ大に我國體を確立するの大趣主なり
然る時は當此際ては眞此大本へ力を蓋し迅速其根元を堅固にして一日も早く海外に手を立ざるときは日に時に病勢を助け身體衰弱に至り必不可
如何に至る其大勢可見也
依て當春時勢の變遷に應し大にここを扶助せんと欲し百方蓋力不顧
ここまで
この時期に既に國體(国体)という言葉が出てきていて驚きました
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明治二年9月10日の日記より
去る四日晩大村益ニ郎木屋町三番路次の寓へ刺客八人亂入
(中略)大村數所の大瘡を受ると雖も性命無恙
由報知余一旦大驚愕
性命の無恙を見先一安堵せり
ここまで
大村益次郎は日記では生命の無事が報じられているが、この時の怪我が元になり亡くなる。
大村益次郎は日本陸軍の創設者であり、靖国神社の敷地中央付近に大きな銅像が立っています。
11月12日日記より
書翰到來
大村遂に過る五日の夜七字絶命の由
實に痛歎残意悲極て涙不下茫然如失氣
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ナポレオン三世はWikiによると普仏戦争の結果、敗北し、プロイセン(ドイツ)の捕虜となる。
このことがパリに届くのが1870年9月3日なのだそうです。
日記を見るかぎり其の翌日には日本に届いている。
明治3年(1970)9月4日の日記より
昨夜英字等の新聞紙を見る佛逐々敗走
ナポレヲン被擒の説あり
世間眞説なりと云
今日又佛の新聞を見る彌ナポレオン擒らへらるるの説あり
雖然佛人ハレスを以降るを不欲
佛人益憤激すと云
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