豊臣秀吉の家臣で、熊本城を築城したことで今も熊本県民から慕われる、加藤清正の伝記
なかなか面白かった。
特に、秀吉の朝鮮半島を経由(しようと)して明に行こうとした、いわゆる朝鮮出兵について詳しかった。
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秀吉は、対馬の宗氏を通じて、朝鮮に明への道案内をするよう依頼している。
朝鮮側からすると当然受け入れられない内容で、朝鮮の役人は聞き入れない。
石田(三成)も、宗も、小西(行長)も弱った。
三人で相談して、一工夫に達した。
博多聖福禅寺の僧で、玄蘇という人物がいる。
これは宗氏に頼まれて、最初からこの問題について朝鮮側と折衝した人物だ。
この時もこちらに来ていたので、これに使節をなだめることを頼んだ。
「ようごわす。何とかしましょう」
玄蘇だって責任の一半はアルミだ、引き受けて説得にかかる
ここまで
このあと、秀吉の依頼を曲解、というか完全に捻じ曲げて解釈し、
朝鮮側には、「秀吉が明に入朝するから、案内してくれ」という意味で伝えることになってしまった。
ここらへんから完全に意思の疎通が図れなくなる。
戦いを収めるにしても、最初からお互いの意思が違う方向に向かっているから、
秀吉には明降伏、明は秀吉降伏みたいな誤解を生む形になる。
はっきりいえば、最初からこの石田、小西がくだらない体面を気にしてぐちゃぐちゃにしたのが原因だろう。
秀吉も年をとってこれに気づかなくなったというのも原因の一つなのだろうが・・・
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清正も、前役には西生浦に、後役には蔚山に築城したのだが、その築城の間に、
朝鮮人の石工の技術の精妙さに感心した。
日本では織田信長が安土城を築いて以後、それまでの土を盛り上げて芝を植える土居のかわりに、石を積み上げて塁壁とすることが大流行となり、
清正も度々それを秀吉に手伝わされ、時々は監督を命ぜられて大いに働いたので、
日本式の石垣構築法については、相当深い知識があったのだが、
日本のそれは朝鮮のとくらべると、幼稚極まるものであると思わないではいられなかった。
―ー中略ーー
「日本に帰ったら、これで城を築こう。
またこの石垣を川の堤防にして、洪水の憂えを除こう」
と、思ったのだ。
それで、自分も熱心に石垣の技術を学び、主だった家来らにも学ぶように命じた。
築城術は重要な戦術の一つであるから、身分ある武将として心得ておくべきものなので、
皆喜んで、熱心に稽古した。
清正はまた技術の優秀な石工には愛情をかけ、手厚く待遇していたので、帰国にあたって、
「日本に行かぬか。士として待遇してつかわすぞ」
と誘うと、皆連れて行っていただきたいと言った。
こうして、清正の連れてきた技術者は石工だけではなかった。
瓦工もあり、陶工もあった。
他の大名も陶工は召しつれたのが多数あるが、石工や瓦工を連れて帰ったのは清正だけであった。
ここまで
清正は連れて帰った石工の中に学問の出来る「金官」というものを見つけ、
自分の論語などの学習のために彼を側に置いて仕えさせた。
最初は百石というから、大抜擢だろう。
清正が死ぬと、金官は後を追って殉死した。
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