この前ウィンストン・チャーチルのノーベル文学賞受賞作である第二次世界大戦を買ったのだが、
英語で大量にあることもあって、全く読めていない。
準備としてとりあえず一冊の本に抜粋してまとめた本書を借りて読んでみた。
読んでみて思ったのだが、翻訳がまずいような気がする。
日本語しか読んでないが、ときどきドイツをイギリスと書いていたりしていて、文章に成っていないところが見られる。
まあ、雰囲気がわかる、という意味ではよいと思います。
==============
1931年まで勝利者たち、特にアメリカはドイツから年次賠償を取り立てることに努力を集中した。
この支払いが、それよりはるかに多額に上るアメリカからの借款によってのみ履行された事実は、すべてをバカげたものにした。
その収穫は、悪意以外の何物でもなかったのだ。
しかし、若し平和条約の非武装条項が1934年まで厳格に守られていたならば、暴力や流血の惨事もなく、人類の平和と安全は保たれたであろう。
しかし事実は、条項違反が小さい場合は問題にされず、違反が重大になるに従って敬遠される傾向があった。
===============
ベルサイユ条約によって、ドイツは六千トンを超えない軽巡洋艦6隻のほか、1万トンの戦闘艦6隻以上の建造を許されなかった。
イギリス海軍省は、ドイツが建造中の二隻の豆戦艦、シャルンホルストとグナイゼナウが、
条約によって許されたよりもはるかに大きなものであり、全く異なった型のものであることを発見した。
事実、この両艦は二万六千トン級の軽巡洋戦艦、または最大級の通商破壊艦であることが判明した。
この、少なくとも二年前の1933年から周到に計画されたこの大胆不敵な条約の侵犯に直面して、イギリス海軍省は、さしあたって英独海軍協定を結ぶことが必要だと考えた。
そしてイギリス政府は、同盟国のフランスに相談もせず、また国際連盟に通告もせずにこれを実行した。
この協定の要点は、ドイツの海軍力が英海軍の3分の1以上を超えてはならないというのにあった。
イギリスはこの条約を成立させるために、ドイツの保証を額面通りに受け取り、
さらに平和条約に明らかに否定されているUボートに与えてしまった。
===============
1936年3月7日正午、ヒトラーはドイツ国会にラインラント再占領の意志があると発表した。
彼がこの発表をしている最中に、ドイツ軍精鋭部隊3万5千が境界線を突破して流れ込み、全ての主要なドイツ人の町々に進入し、いたるところで歓迎された。
ラインラントの「非武装地帯」は、ベルサイユ条約によって規定されていた。
それは、ラインの左岸に沿い、また右岸から50km以内にドイツが要塞を築くことを禁ずると宣言していたのだ。
この地帯に、ドイツはいかなる軍隊も置けず、一切の軍事演習は禁じられ、
一切の軍事動員用の組織も保持してはならぬことになっていた。
また別個に協定したロカルノ条約は、ドイツ・ベルギー国境と独仏国境の恒久化を保証した。
ロカルノ条約の第二条は、ドイツ、フランス、ベルギーは、今後これらの国境を超えて侵入、または攻撃せざることを約している。
この違反国に対しては、国際連盟は条約調印国に対し、侵害を受けた国に軍事援助を与える義務があることを通知せねばならなかった。
===============
ポーランドの悲劇は、ドイツの猛撃によってのみなされたのではなかった。
9月17日、ソ連軍は一斉に無防備に近いポーランド東部国境を群がり超え、大波となって西へ殺到した。
こうして今やロシアの共産主義者たちは、ヒトラーのドイツと内心笑いながら握手したのであった。
ワルシャワ市民の英雄的抵抗は壮絶極まるものであったが、孤立無援の中に連日の猛爆と砲撃の中に死闘したとはいえ、約一ヶ月間のポーランド3500万国民の抵抗も、
ついに奴隷化と民族絶滅を企図した無慈悲な手の中に落ちたのであった。
ソ連各軍はヒトラーと協定した線まで前進を続け、29日、ポーランド分割のソ独協定が正式に調印された。
===============
(1941年12月)10日、私は軍令部長からの電話報告を受けた。
彼の声はこみ上げてくる悲しみに耐えているようだった。
「総理、『プリンス・オブ・ウェールズ』と『レパルス』は、日本航空部隊の攻撃で沈められました。」
「間違いありませんか?」
「間違いありません」
私は受話器をおいた。
戦争の全期間を通じて、私はこれ以上のショックを受けたことがなかった。
私はベッドの上で身悶えした。
もう、太平洋は、日本のものになった。
【新品】【2500円以上購入で送料無料】【新品】【本】【2500円以上購入で送料無料】第二次大戦... |