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韓国 堕落の2000年史 崔基鎬

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昔どこかのネット記事で
”"私は88才です。 もう事実を話したいと思います。 [チェ・キホ伽耶大学客員教授] 朝鮮末期の私は1923年の生まれです。・・・・”
とつづく記事を見たことがある。
ハングルのオリジナル記事はおそらくここ

この教授の本がこれ
すっかり忘れてて、ブログ記事書くときに著者を検索したら思い出した。
著者は在日の方(二世か?)

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歴史は反省の学問でなければならない。
統一神羅は、高句麗が武力によって隋と唐を圧倒した時代があったのに、
その広大な領土も住民も棄てて、自ら唐に臣従した。
そして進んで「創氏改名」を行って、中国式の一字姓に改めた。
その結果、中国の政治文化によって韓族の精神から清新さや活力が失われ、民族性が歪められた。

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支配階級である両班は、勤労することを厳しく禁じられ、そして空疎な学問を至上なものとして尊んだ。
そこでは労働が卑しいものであり、常民以下の仕事とみなされた。
額に汗して働く者は蔑まれた。
両班は不労所得階級だった。

李朝末期のソウルに駐在したH・B・シル米公使が回想録に、高宗が米公使館を訪れた時に、
アメリカの公使館員が庭でテニスに興じているのを見て、
「どうして、あのようなことは召使にさせないのか」とたずねたと記しているのは、有名な逸話である。
両班は、運動についても、汗を流すから尊厳を損ねる下賎な行為とみなしていた。

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大統領の権限は絶大なものがある。
2000年6月に南北首脳会談が行われて、金大中大統領と金正日総書記が、歴史的といわれる抱擁を交わした。
金大中大統領は平壌からソウルに戻ると、韓国が独立して以後、半世紀以上にわたって北朝鮮に敵対し、共産主義に対抗することを目指した国是を、大統領の個人的な意志一つによって、放棄した。
北朝鮮を絶対的な悪として描いてきた学校教科書に、金大中大統領と金正日総書記が抱き合った写真が大きく載ることになり、反共法として知られてきた国家保安法が改定されることになった。
このように法治主義が原則とされていても、実際は、多分に人治主義的なのである。

ここで、私は金大中大統領の対北政策の是非を論じるつもりはない。
ただ、韓国が独立して以来、その基本に据えられてきた国是を、国会に諮ることも、
民主的な討議を経ることもなく、大統領ただ一人の意思によって変更を決定したことを指摘しているのだ。

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ハングルは李朝が滅びるまで、諺文(オンムン)と呼ばれて、女や子どものための文字として蔑まれていた。
エリートである両班たちは慕華思想に凝り固まっていたので、漢文しか使わなかった。

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救国の英雄であったはずの李舜臣は、その功績を嫉妬した元均一族の謀略によって、
罪人に仕立てあげられ、牛車に乗せられてソウルまで押送された。
そして裁判もなく、拷問を加えられた上で、死刑の宣告を受けた。

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ソウル市松坡洞(ソンパドン)にある、「三田渡碑(サムジョンドビ)」

清の太宗の頌徳碑で、名将を「大清皇帝功徳碑」というが、韓国では「恥辱碑」として知られてきた。
大韓民国の史跡第101号に指定されている。

ここまで
清に屈辱の和約を結ばされたそうで、そのとき
王の長子・次男などを人質に取られたりしているが、その中の一つに
「日本との交流を許すこと」
というのがある。
これは、いったいどういう意味なのだろうか。

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大院君は、ようやく閔妃の戚族一派が策動しているのを見抜き、李氏の子である完和君が長男であったことから、世子として冊封しようとした。
閔妃と大院君都の闘争が激化した。
彼女は利発だった。
閔妃は側近の李裕之を北京に派遣して、清朝から坧を嫡子として承認してもらうことに成功した。
ーー中略ーー
閔妃と大院君との溝は日増しに深まり、爆発寸前に迫った。
だが、ここでは国王の意思が絶対だった。
国王を手中に入れていたのは閔妃のほうだった。
1973年、大院君は9年余にわたった摂政の座を降りて、野に下ることを強いられた。
そうして高宗の親政が始まった。
が、高宗はあいかわらず酒色に耽っていたから、実質的には閔妃の専制となった。
ーー中略ーー
1881年に、近代化の先進国である日本に60人以上の若い官僚から構成される「紳士遊覧団」を派遣して、視察させるとともに、軍制を改革し、日本式の軍事訓練を実施した。

閔妃は王子坧を世子として冊封するために莫大な資金を費やした。
そのうえ、閔妃は世子の健康と王室の安寧を祈るために、「巫堂ノリ」を毎日行わせた。
「巫堂ノリ」は、巫女たちが狂ったように踊り、祈る呪術である。
そのかたわら、金剛山の一万二千の峰ごとに、一峰あたり1000両の現金と、一石の白米、織物1万2千疋を布施した。
当時の国家の財政状態は、150万両、米20万石、織布2000疋を備蓄していたにすぎなかったから、閔妃が金剛山に供養した額は、国庫の6倍以上に当たるもので、とうてい耐えうるものではなかった。

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日本の愚かな女性作家が、閔妃に同情的な本を書いたことがあるが、
閔妃は義父に背恩したうえに、民衆を塗炭の苦しみにあわせ、国費を浪費して国を滅ぼしたおぞましい女である。
このような韓国史に対する無知が、かえって日韓関係を歪めてきたことを知るべきである。

ここまで
ここでいう女性作家とは角田房子のことだろうか?
閔妃暗殺という本が出ているし、レビューを見るかぎり合致しそうだ。



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