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ヨーロッパ戦後史 下 1971-2005 トニー・ジャッド

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ヨーロッパ戦後史(下)1971-2005/みすず書房
¥6,300
Amazon.co.jp
上巻の続きで、1971年以降、2005年まで
主な議題は、東側諸国の崩壊、冷戦終結、EUの設立

==========

西ヨーロッパのほとんどの地域では、1960年台に吹き荒れた過激な論理は
すっかり影を潜め、害を及ぼさなくなっていた。
だがとくに二つの国において、それは精神病のような自己正当化的攻撃へと変質していった。
マルクス主義弁証法の独自解釈に酔いしれた一握りのかつての過激派学生が、
西ヨーロッパ民主主義国による寛大さを装った弾圧の「真の姿」を「暴露する」ために
立ち上がったのだ。
資本主義国家の議会制度に強い揺さぶりをかければ、
やがて合法性という隠れ蓑は剥がれ落ち、その正体があらわになるというのが
彼らの論理だった。

ここまで
この2つの国とは西ドイツとイタリアであり、
西ドイツは「赤軍派(RAF)」と、イタリアの「赤い旅団(BR)」である。

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ギリシアはアイルランドと同じく、小国で貧しく、
その農業もフランスの農民の脅威とはならなかった。
したがっていくつかの制度上の障害 (正教教会は公式の強い地位を持っていて、
一例を挙げれば、民事婚は1992年まで認められなかった) にもかかわらず、
強力な加盟反対の議論はなく、とりわけ加盟の擁護者となったのはフランス大統領
ジスカールデスタンだった。
だがポルトガル、そして(とりわけ)スペインの番になると、フランスが強力な反対を唱えた。
ワイン、オリーブ油、果物その他の農産物は、
ピレネー山脈の南で栽培し販売するほうがはるかにコストは低く、
スペインとポルトガルが同条件でヨーロッパ共同市場に加盟するとすれば、
イベリア半島の農業はフランスの農業生産者の手強い競争相手になるだろうと思われた
のである。
したがってポルトガルとスペインがEC加盟を手にするまでには9年間を要し
(ギリシアの申請は6年もかからずに認められたのに)、
イベリア半島の世論におけるフランスのイメージは伝統的に良かったのに、
この時期には急激に下落した。
一連の厳しい交渉が道程の3分の2に至った1983年までに、
フランスに対して「好ましい」見解をもっているスペイン国民はわずか39%となった。

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フランスの左翼はマルクス自身のように、すべての現実の変化を政治革命一般、
そしてとくにフランス大革命と同一視していた。
ーー中略ーー
こうしてミッテランの時代は、野心的で急進的な政策を以って始められた。
走馬灯のようにくるくる変わる「反資本主義」立法計画とともに、
道徳的高揚感に満ち、機が熟した社会改革が取り揃えられた。
(そのなかでも死刑の廃止は最も重要なものだった)
ーー中略ーー
政権一年目に、ピエール・モーロワを首相とする新しい社会党政府が
なかでも国家の支配下に置いたのは36の銀行、2大金融会社、
フランスの5大工業会社(国の主要な電気・電子製品メーカーであるトムソン・プラント社
を含む)、およびフランスの巨大鉄鋼グループユジノール社とサシロール社だった。
ーー中略ーー
だが1982年にフランスが「社会主義」への道を進むということは、
為替管理を行うだけではなく、自国を貿易相手国から切り離し、
経済を実質的に自足自給でやってゆくようにするために全面的に規制することを意味していた。
フランスを国際金融市場から切り離すことは、
後になってみればそれほど想像できない企てではなかったかもしれない。
ちなみに1977年には、IBMだけの時価総額がパリ株式市場全体の時価総額の2倍であった。
ーー中略ーー
ミッテランは集中的に考えたようである。
それを後押ししたのはおそらく、経済界でははっきりと恐怖心が高まり、
通貨が、有価証券が、それに人材が緊急の度を増して海外に移ろうとし、
それが経済危機を促進する兆しが出てきたことだった。
1982年6月12日、大統領は「Uターン」することを決定した。

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1980年代の「新」冷戦の初期段階において、
チャウシェスクは策略の自由と外国からの喝采でさえも手に入れた。
このルーマニアの指導者が喜んでロシアを批判した
(そして自国の体操選手をロサンゼルス・オリンピックに送った)
ので、アメリカもその他の国々も彼の国内の犯罪については黙っていたのだ。

しかしながらルーマニア国民は、チャウシェスクの特権的な地位のために
とんでもない犠牲を払わされた。
1966年には人口を増やす(昔からの「ルーマニアが第一」という執念)のために、
彼は40歳以下で(この年齢制限は1986年には45歳に引き上げられた)
子供が4人未満の女性の妊娠中絶を禁じた。
1984年には、女性の最低結婚年齢が15歳に引き下げられた。
妊娠可能年齢にある前女性の強制月次診断が、妊娠中絶を防止するために導入された。
ーー中略ーー
人口は増加しなかったが、妊娠中絶による死亡率は他のヨーロッパ諸国のどれよりもはるかに高かった。
唯一利用できた出産回避の方法として、
多くの場合きわめて劣悪で危険な状況での不法堕胎が広く行われたのだ。
この1966年の法律の結果として少なくとも1万人の女声が死んだ。
実際の幼児死亡率があまりに高かったので、1985年からは
子供が4週間目まで生きていて初めて出生数が公式に記録されるようになった。
共産党の情報による操作の真髄である。
チャウシェスクが倒された時までに、新生児の死亡率は1000人につき25人で、
施設収容時の数は10万人を超えていた。

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(1989年)
ゴルバチョフは植民地を手放すだけではなく、それ以上のことをした。
干渉しないと知らせることによって、衛星諸国の統治者たちが頼りにできる
政治的正当性の唯一基本的な源、モスクワからの軍事介入の必然性(あるいは脅威)、
を決定的に破壊したのだ。
その脅威なしでは、地域の政権は政治的に丸腰だった。
経済的にはさらにあと数年はあがくことができたかもしれなかったが、
その面でもソ連の撤退の論理は容赦の無いものだった。
ひとたびモスクワが(1990年にやったように)コメコン諸国への輸出品に
世界の市場価格を課し始めると、ソ連帝国の補助金に大幅に頼っていた諸国は、
いずれにしても崩壊することになっていた。

この最後の事例が示唆するように、ゴルバチョフはロシア自体を救うために、
ちょうどスターリンが衛星諸国の体制を、それら諸国のためでなく
西方の国境を保全するために建設したように、
東ヨーロッパにおいて共産主義を崩壊させたのである。
戦術的には、ゴルバチョフは大きな誤算をした。
二年も経たないうちに、東ヨーロッパの教訓が
自国内の地域解放者たちに対して使われることになった。

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1989年12月18日にリトアニア共産党が分裂し、
圧倒的多数が即時独立の立場を宣言すると、
ゴルバチョフももはや沈黙を続けるわけには行かなくなった。
ーー中略ーー
リトアニア最高会議は、3月11日にリトアニアの独立回復を124対0の圧倒的大差で可決。
その象徴として1938年の「リトアニア国憲法」の復活と、
リトアニア共和国内におけるソ連憲法の効力停止を宣言した。

1990年にはロシア共和国までが「主権宣言」を行い、
同共和国の法律は「全連邦の」法規に優先すると断言するなど、
きわめて不安定な情勢の中、リトアニアの独立宣言に対して
ソヴィエト当局が取った対応は、経済封鎖の脅しをかけることだけだった。
ーー中略ーー

その後の熱狂的な半年間に、ソ連を構成する他の主要共和国も
完全独立にまでは踏み切らなかったものの、こぞって「主権」宣言を行い、
ゴルバチョフはますます窮地に追い込まれた。

===============

実のところ、ユーゴスラヴィア内の「民族」断層線は、決してはっきりしてはいなかった。
言葉の違いが代表的な説明となりうる。
アルバニア人とスロヴェニア人はちがう言葉を話す。
マケドニア人はマケドニア語を話す。
だが人口の圧倒的多数が話す「セルビア・クロアチア語」のなかの、
「セルビア」型と「クロアチア」型の違いは、過去でも現在でもほんとうに小さい。
ーー中略ーー
想起されることの多い宗教の違いも、誤解を招くことが多い。
たとえばカトリック教徒のクロアチア人と正教徒のセルビア人の違いが大きかったのは
何世紀も昔のこと
ーー中略ーー

セルビア人がアルバニア人を嫌うのは、近隣にいることと不安感とで増幅されているのだが、
はるかに遠くユーゴスラヴィアの北部では、
無能な南部の人々に対して増大する嫌悪感は民族に関係なく無差別で、
国民性よりも経済に基づくものだった。
イタリアにおけると同様ユーゴスラヴィアでも、裕福な北部は、
生産性の高い同胞からの送金や補助金で支えられている、と思われていた、
貧しい南部人に対して、ますます憤慨の念を募らせた。
ーー中略ーー

こうしてスロヴェニア、マケドニア、コソヴォがみな、国の人口に対して大体同じ割合(8%)
を占めていたのに、ユーゴスラヴィアの全輸出に占める割合は1990年に、
小さなスロヴェニアが29%、マケドニアが4%、コソヴォは1%だった。

ユーゴスラヴィアの公式データから出来る限り拾ってみた結果では、
スロヴェニアの一人当たりGDPは、セルビア本体の2倍、
ボスニアの3倍、コソヴォの8倍だった。
アルプス地帯のスロヴェニアでは、1988年の文盲率が1%未満なのに対し、
マケドニアとセルビアでは11%だった。
コソヴォではこの数字が18%だった。
スロヴェニアでは1980年代の末までに、乳児死亡率は
1000件の生児出生に対し11件の死亡だった。
隣接するクロアチアでは、この数字は1000件につき12件、ボスニアでは16件だった。
しかしセルビアではこの数字は1000件につき22件、マケドニアでは45件、
コソヴォでは52件だったのである。

これらの数字が示唆するものは、スロヴェニアと(程度はより低いが)クロアチアは
すでにヨーロッパ共同体の富裕度の低い方の国々と同等の地位を占めるが、
コソヴォ、マケドニア、農村地帯のセルビアはアジアやラテンアメリカの一部の国々に
もっとよく似ている
、ということである。

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ポスト共産主義において
結果は、泥棒政治としての民営化だった。
その最も破廉恥なケースであるロシアでは、ボリス・エリツィンとその一味の統治のもとで、
移行後の経済は途方もなく裕福になった少数の人達の手中に握られた。
2004年までに、36人のロシアの億万長者(「オリガーク」=少数新興財閥)が
国の全国内生産物の4分の1にあたる推定1100億ドルを手に入れた。


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同じ時期のアルバニア人と同じく、市場ですぐの満足を求めたルーマニア人たちは、
その代わりにリスク無しで短期の巨額の利益が約束されるマルチ商法を提案された。
1992年4月から1994年8月まで実施されたそのような商売の一つである「慈善」詐欺には、
ピーク時においておそらく400万人、ルーマニア人口の5人に1人に近い、の参加者があった。


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21世紀の最初の数年までに、フランスにはおそらく600万人のムスリム
(イスラム教徒、その多くは北アフリカ出身)がおり、
ドイツもほとんど同じくらいの数(主としてトルコ系とクルド系)を抱えていた。
イギリスの200万人近くのムスリム(ほとんどがパキスタンとバングラデシュから)と
ベネルクス諸国とイタリアにおけるかなりの数とを合わせると、
これらの数字は連合全体に恐らく合計1500万人のムスリムがいることを示唆していた。

これまで圧倒的に宗教色が薄かった社会におけるムスリムの存在は、
社会政策上の難しい問題を引き起こした。
公立学校で宗教的な衣装やシンボルを身につけることに対して、
どのような規定を作成すべきか?
国家はどの程度まで、個々の文化制度や施設を奨励(あるいは禁止)すべきか?
多文化(したがって事実上分裂した)社会を支持する政策は良かったのか?
あるいは当局はむしろ統合を促進し、強制さえするように努力すべきなのか?
フランスの公式な政策は文化的統合を唱えて、学校における信仰のサインの表示を禁じた。
他の国々、とくにイギリスとオランダでは、文化の違いと宗教上の
自己アイデンティティーの主張に対してもっと広く容認した。
しかし、あらゆる国々で意見がわかれたのである。

こうした問題が国の政策課題の最上位に急速に上り、
移民と亡命についての討論と亡命についての討論とますます絡められるようになったのだが、
それは新世代の外国人嫌いの政党が台頭するのではないかという
ヨーロッパ大陸全域にわたっての不安の高まりのためだった。



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