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民主主義とは何なのか 長谷川三千子

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民主主義とは何なのか (文春新書)/文藝春秋
¥735
Amazon.co.jp
民主主義とはどのようにして生まれたのか、その歴史を通じて
民主主義、人権などを考える本

私たちは、フランス革命に対して
「民衆が立ち上がって貴族政治に立ち向かい勝った」
という印象を持ちがち
だが、実際には
・約60万人のフランス人が互いの殺し合いによって命を落とした
・革命政府自身が「圧制者」となることによってひきおこされた

ものであり、
そこにはヴァンデの反乱のようにおぞましい虐殺も存在している。

デモクラシー(民主主義)という言葉はこれ以降ネガティブな意味で使われるようになるが、
20世紀に入るぐらいからそのイメージが逆転するのだそうだ。
それが第一次世界大戦のあとのヴェルサイユ条約に端を発する、と著者は述べる。
あそこでドイツを理想の民主主義国家にするためには民主主義=善である
というイメージが必要だった。
ワイマール憲法はそれから廃止にいたり、ナチズムが跋扈するのだが

<多数決>
国民主権、つまり国民の意思が重要である場合、
その意見が一つであることは極稀であり、
その場合多数決をもって決定する。

が、多数決を「多数決」として機能させるには、各人が
「その意志を理性に一致させるようにする」という「道義心」が必要不可欠
である。
決して単なるメカニズムによって多数決が成り立つものではないのである。

当然といえば余りにも当然のことなのであるが、「多数決」が成り立つためには、
少数者となってしまった人々が、そうと分かった瞬間に、
あっさりと自分たちの意見を引っ込めて、その決定に従うということが不可欠である。

つまり、二千万人あまりの「国民」が多数決によって
「国民の意志」を決定することができるためには、
少なくとも数百万人の「国民」が、きわめて理性的なふるまいをしなくてはならぬ、
ということになる。
しかも、それぞれの案件について、何時、誰が「少数者」となってしまうかは
想像もつかないのであるから、すべての国民が、
いつでも自らの意思を投げ出せるように心の準備を整えておかなければならない、
ということになる。

だが、こんなことは通常行うことは難しい。

となると、そこにどのような事態が生じることになるのか
まず、「少数者」となった人々は、大人しく自らの意思を曲げて多数者の意志に従うより、
どこまでも自らの意思を「至上至高の法」として押し立てることを選ぶ
であろう。
これに対して「多数者」はもちろん、絶対の自信を持って、
自分たちの意思こそが正真正銘の「国民の意思」であると主張
する。
そればかりでなく、あくまでも反対し続ける「少数者」は、まさに「徒党」を組んで、
「共同体にとって危険な陰謀」をたくらむ「最も手強い公敵」として、
徹底的な排除の対象とされることになるであろう。

実は、これこそがまさにあの第一章に見たヴァンで虐殺を必然的に呼び起こした構造なのである。

<国民主権>
一口に言えば、「国民主権」の概念は「抑制装置を取り外した力の概念」である。
そして、そのために、この概念は「国民」それ自体の内においても、
歯止めのない暴力性を発揮することになり、また、一転して国の外側に対しても、
きわめて闘争的な様相を見せることになるのである。

フランス革命当時、フランスがほとんどヨーロッパの主要国を相手に戦争を行ったのも、
単に、ヨーロッパの君主国がこの新しい政治原理を掲げる国家を
敵視したからというだけではない。
国の内側において妥協なき戦いを繰り広げたように、
彼らは国の外側においても妥協なき戦いを繰り広げたのである。
あの、現在でもフランスの国歌となっている「ラ・マルセイエーズ」の歌詞を見ると、
彼らがいかに「闘争的な」原理に鼓舞されていたかがありありと解るのである。
それはこう繰り返す。

「武器をとれ、市民よ
隊列を組め
進め、進め、
汚れたる(敵の)血をもて
われらが田畑を潤さん」

この「ラ・マルセイエーズ」におけるほど革命と戦争の親近性
が生々しく表現されている例は少ないと言えるであろう。
これは単なる愛国的な戦争歌なのではない。
これは戦争歌であると同時に革命歌であり、また「内ゲバ」の歌ですらある
「おののけ暴君よ、そして汝ら裏切り者よ。
全党の恥辱よ、おののけ」
そして、彼らと敵とのこの「近さ」が、
ただ遠い異国の兵士たちを相手に戦うときには見られないような、
残忍な血なまぐささを生み出すのである。
「汚れたる敵の血をもてわれらが田畑を潤さん」
この表現は、全く未知の異邦人を相手に使うには、あまりにも生々しい。

<独立宣言の一節>

われわれは、次の真理を自明のものと信じる。
すなわち、すべて人間は平等につくられている。
すべて人間は創造主によって、誰にも譲ることのできない一定の権利を与えられている。
これらの権利の中には、生命、自由、および幸福の追求が含まれる。
これらの権利を確保するために、人々の間に政府が設置されるのであって、
政府の権力はそれに被治者が同意を与える場合にのみ、正当とされるのである。
いかなる形体の政府であれ、こうした政府本来の目的を破壊するようになれば、
そうした政府をいつでも改変し廃止することは国民の権利である。
そして、国民の安全と幸福とに最も役立つと思われる原理や権限組織に基づいて、
新しい政府を設立する権利を国民はもっている

<人権、この悪しき原理>
現代の日本では「人権」とは、一人一人の人間が人間であるかぎりにおいて持っている、
かけがえのない価値のことである、といった説明をわれわれはよく耳にする。
もしその通りであるとすれば、「人権」尊重におけるもっとも大切なことは
自己修養にはげむべし、ということであって、それ以外のことではない
であろう。
ごく一般的な事実として、
「一人一人が人間である限りにおいて持っている、かけがえのない価値」
を損なうのはその人自身であることがもっとも多いのだからである。

ところが、実際の「人権」思想や「人権」運動は、
そうした自己修養などということには目もくれず、
まさに「デモクラシー」のイデオロギーとしてはたらいている。

すなわち「人権」という言葉が叫ばれるたびに、その背後には、
あの「絶対的恣意的権力」という幻がたちあらわれる。
現実にそのようなものが存在するか否かにかかわらず
(現実には、その通りのものが存在するのはたいへん稀有のことである)、
「人権」の概念はそれを必要とするのである。
あるときは政府が、あるときは大企業が、
人々を「自己の絶対権力の下におこうと試みる者」とみなされ、
それによって各人の自由と生存を脅かしているものとして糾弾される。
時とすると、そうした糾弾はほとんど無意識のうちになされている。
しかし、いずれにしても、「人権」という言葉を「正当なる要求・訴え」として叫ぼうとする限り、
そこでは常に「その権利を奪おうとしている悪玉」というフィクションが不可欠なのであり、
その幻は繰り返しそこに呼び出される、ということになるのである。

<人権と共産主義>
もともと、「デモクラシー」のうちには指導者を悪玉扱いして
引きずり落とそうとする衝動がひそんでいるとは言っても、
それが意識的に国家(またはポリス)そのものを滅ぼそうという動きになることは少ない。
アテナイの弾劾裁判でも、「自国を敵に売ろうとした者」は、
「民主主義を転覆しようとする者」と同じく重罪に問われたのである。
これに対して、かつての我が国の共産主義者たちは、
はっきりと国家そのものを滅ぼすことを目指していた。

それは、実際に、ソ連や中共といった共産主義国に忠誠を誓った人間が、
敵国人として日本を滅ぼそうとする、という形で行われることもあったし、
何よりも、共産主義の教義そのものが、
すべての国家を絶滅したところに真の共産主義を築くべし、
ということを教えていたのである。
ただし、その頃の共産主義者達は、「人権」というスローガンにはいたって冷淡であった。
彼らは、むしろ「ブルジョワジーによる搾取を覆い隠す虚偽表象」であると言って、
この概念を非難していたのであった。
ところが、1980年代の終り頃から、それがにわかに一転する。
「人権」は共産主義者のもっともお気に入りの「キーワード」となり、
それを「裁判手続で確保する」ということに多大な関心が寄せられるようになる
のである。

これは、共産主義者自身の立場からすれば、決して変節ではない。
むしろきわめて首尾一貫した運動方針、少しでも我が国の力を弱めること、
に導かれて取っている路線である
といえよう。
世界各国で共産主義というものが力を失ってきても、
自国を内側から亡ぼす方策はまだまだいくらでもある。
彼らにとって「人権」訴訟は、うまくゆけばそれで運動資金が手に入るビジネスである
というだけのことなのではない。
「人権」の侵害を告発し、国を相手取って訴訟をするたびに、
そして、それが大々的に報道されるたびに、
そこには繰り返し「絶対的悪玉としての政府・国家」という幻がくっきりと浮かび上がる。
またもちろん、それを告発する自分たちは、「絶対的善玉」として姿を表わすことになる。
まことに一石三鳥なのである。

唯一つ、かれらがそこで目指していないのは、本当に
「生命、自由及び資産」を危険にさらされたり奪われたりしている人々を救う、
ということである。
もし、彼らがそれを目指しているなら、
日本人十数名が北朝鮮に拉致されたままになっている疑いがきわめて濃厚である、
という事件について、すでに何らかの活動を行なっているはずである。
この事件こそは、本来の「基本的人権」の定義に照らして、
「人権」運動家がもっとも真剣に真正面から取り組むべき課題
なのである。
しかるに、現在この問題に関心を寄せ、助力を申し出ている国会議員、地方議員のなかに
共産党の所属議員は1人もいない。

このことがすべてを物語っていると言えるであろう。
明らかに、「人権」という概念は、人々の善意の誤解を悪用して、
かつての共産主義が果たしていたのと同じ役割をになわされているのである。


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