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シャトル外交 激動の四年 上巻 元アメリカ国務長官 ジェームズ・A・ベーカーⅢ

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シャトル外交 激動の四年〈上〉 (新潮文庫)/新潮社
¥820
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ベーカー元国務長官はブッシュ大統領(父親の方)時代の国務長官です。
ブッシュパパはアメリカ大統領としては珍しく1期4年のみの就任です。
しかし、大統領就任期間1989年から1994年までに何が起きていたのか
・ドイツ統一
・ソ連崩壊
・天安門事件
・南アフリカでアパルトヘイト廃止
・パナマ侵攻
・ユーゴスラビア紛争
・湾岸戦争

これだけの世界を揺るがした事象が起きていてこれらのうちの多くにアメリカ大統領は関わっていました。
この点だけを見ても、功罪は人によって見方が違うにしても
すごい大統領だった
という評価は得られるはずです。
そして、そのブッシュ外交を支えたのが、この著者ベーカーです。

<国務省>
国務省には外交局という外交を専門とする国別・目的別に分かれたエリート公務員の集団がある。
本省の各部局や在外大使館などに配属される外務公務員になるには、
血の滲むような努力をして筆記試験と数回にわたる面接をパスしなくてはならない。
ーー中略ーー
外交局員(FSO)のワシントン勤務は5年までと定められているため、
彼らはアメリカより外国で暮らすほうが長い場合が多い。
この傾向に加えて、さまざまな事項に関する相手国政府の見解を知り、
それを本国に報告することが大使館の重要な任務になっているため、
外交官はともすれば「クライアント病」に冒されやすい。
クライアント病とは、外交官が本国政府よりもホスト国(クライアント)の利益を重視するようになることを指す。
ホスト国の立場を理解することは必要だが、ホスト国政府と完全に一体化してしまい、
政策論議の際にホスト国の代弁者になるのでは、明らかに行き過ぎである。
この病気にかかるのは、外交局員ばかりではない。
私が知っている”重症の患者”のなかには、政府から任命された大使も何人か含まれる。
彼らはホスト国とその政府にのめり込むあまり、ときとして何がアメリカの国益なのかが見えなくなってしまう。

<ブッシュと中国>
ジョージ・ブッシュは1979年代半ばにアメリカの在北京連絡事務所長を2年間務め、
個人的な外交を展開し、中国の指導部のほぼ全員と、強いきずなを結んできた。
このため、ブッシュが大統領に就任後、対中国政策の大半は自らが担当していた。
それは大統領自らが中国の諸事情に精通していたからである。

<パナマ侵攻>
パナマは当時ノリエガという将軍による独裁政権だった。
パナマ運河は現在はパナマ共和国が管理しているが、当時はアメリカのものだった。
ノリエガは後継者に軍の指揮権を引き継ぐ予定だったが、それを守らず、
1988年デルバイエ大統領から完全に政権を奪取した。
奪取の直前、1988年2月、フロリダ州の2つの連邦大陪審がノリエガを麻薬取引の容疑で起訴したことが関係しているようだ。

その後、度重なるクーデターがパナマ国内で起きる、あるいは計画されるが、
すべて失敗し、逆にノリエガ政権は国内のアメリカ人に危害を与えるようになった。
最終的にブッシュ大統領はアメリカ国民を守るためにパナマ侵攻を決意する。
ノリエガ政権は失脚し、ノリエガは拘束され、上の罪で逮捕されることとなった。

<ドイツ統一へ>
第2次世界対戦の結果、ドイツは東西に分割されていた。
この両ドイツをどうするのかについては、第二次大戦での四強国、つまり
アメリカ、ソ連、イギリス、フランス
の意向が大きく影響していた。
アメリカは統一賛成であり、ソ連は大反対
英仏はドイツのヨーロッパにおける影響力の増大に懸念を示し慎重な姿勢をとっていた。

アメリカ政府は、このドイツ統一問題に対して、
「四大国の意向を元に、主導する」か、
「両ドイツの意向を重視し、自身が主導する」
つまり「4プラス2」なのか「2プラス4」をはっきりさせる必要があると考えた。
ベーカーは各国首脳と会談し、(当然ながら)「2プラス4」の方が望ましい、という言質を最終的に取ることに成功する。

<湾岸戦争へ>
イラクがクウェートに侵攻した後、多くの国がイラクへの経済制裁を実施した。
その経済制裁にすぐ音をあげると思っていた首脳は自分たちの考えが甘かったことに気づき始める。
そんななか、エジプトのムバラクがベーカーと会談し、
「私の戦車はどこにあるんですか?」と尋ねた。
カーター政権において、アメリカはエジプトに数台の戦車を送ることを約束していたが、
アメリカはその約束を果たしていなかったからだ。
ムバラクはフセインに対して非常に大きな怒りを感じていた。
1990年8月2日以前に、サダム・フセインはムバラクに、
クウェートに侵攻する意図はない
と語っていた。
ムバラクがイラクのクウェート侵攻はない、と保証したおかげで、
アメリカ及び各国政府はサダム・フセインの真意を大いに読み違える結果となったためだ。

こうした経緯の元、安全保障理事会でより強い制裁をイラクに加えよう
とアメリカは考えたが、それには常任理事国の承認が必要だった。
天安門事件で忙しく、各国の非難も避けたい中国は問題なかったが、
ソ連は中東国際会議をまず開くべきだと暗に主張してきた。
だが、それを行うとフセインがパレスチナ問題を絡めてきて紛糾し、
結果としてフセインのような積極派が勝利を宣言し、
現在の対イラクに対する中東の団結が崩れることになる。

しかし、アメリカとしては何としてもソ連と対イラク強行路線を含んだ共同宣言を行う必要があった。
ブッシュ大統領は「国際会議」を含めるかどうか迷っていた。
彼はベーカーに対して次のように言った。
兵士たちを、ペルシャ湾に送ったのは私だ。
ほかのだれでもない、この私なんだ。
彼らの命をむだに危険に晒さずにすむのなら、私は自分にできることはなんでもする。
もし戦わずに兵士たちを連れ戻せるのなら、私はその道を選ぶ

部屋の中は、水を打ったように静まり返った。
最高司令官だけが味わう孤独と責任感が、その言葉にはあふれていた。

最終的には、なんとか国際会議に言及せずにソ連と共同宣言を行うことができた。

そして、安保理で追加制裁、つまり国連軍による制裁が決定した。
しかし、その後議会では当然のことながら反対意見が待っていた。

最も強硬な反対意見を述べたのは、ポール・サーペンズ民主党議員だった。
大統領が議会の承認なしに戦争を始める権利があるという政府見解は
「まったくの憲法違反だ」と述べた上で、経済制裁を支持する発言をした。

「いま軍隊を増派することは、戦争への道をひた走るようなものです。
このままでは二、三ヶ月のうちに戦争が起こります。
その戦争でお子さんを亡くされるご家族に、平和的に解決するために手を尽くしました、
とはとても言えません。
なぜなら、まだ経済制裁の結果が十分に出ていないからです。
これまでの政策は、効果が出ていました。
経済制裁はフセインを締め付けていたし、これからも日増しに効果を増していくはずです。
それなのにその政策を捨てて、進路を変更したのです。
そして、否応なく行き着くのが戦争です。
いまこそ、長距離ランナーのように忍耐力、スタミナ、強い意思を持ちましょう。
それに、勇気も必要です。
平和的に解決するためには、なんとしても・・・経済制裁の効果が出るまで、
十分な時間をかけて続けるべきです」

彼が言うほどの長期間、国際協調を維持するのは不可能に近いこと
を実際問題として知っていたベーカーは次のように発言した

「上院議員、ひとこと言わせてください。
国務省の私の部屋から、アーリントン国立墓地がよく見え、私はいつも眺めているということを。
私は、いま何が危険に晒されているかとても良くわかっています。
アメリカ合衆国の大統領も、同じように分かっていると思います。
私たちはこれまで、無謀で向こう見ずなことはして来ませんでした。
愛する祖国の国務長官として、私は平和的な解決の道を探る重い責任があることも、
努力を惜しまずあらゆる手段を尽くす必要があることも承知しています。
平和的な解決こそは私たちの望むところでありますから、これまでも努力して来ましたし、
今後も努力していくつもりです。
しかし、平和的に解決するための方法の選択を間違う危険性もあります。
この独裁者に、私たちが本気で武力を行使する気だと思わせ、
また自ら平和的に撤退しない限り武力でクウェートから追い出されるのだと思わせてこそ、
平和的に解決できるのです




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