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イスラーム世界の二千年 バーナード・ルイス

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イスラーム世界の二千年―文明の十字路 中東全史/草思社
¥4,830
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岡田英弘さんの「世界史の誕生」を通じて中世における中東の重要性は知ったのだが、
ほとんど知らないものだからしっくりこず、
そのためにヨーロッパにおいてもいくつかの疑問が生じていた。
この本を通じて、すっぽり抜けていた大きな穴がふさがった気がします。

チンギス・ハーンのモンゴル帝国がその領土を中東、そして東ヨーロッパの端まで達していたことは世界史の教科書にも載っている。
現在、中華人民共和国内に、ウイグル自治区、つまり東トルキスタンが存在する。
この地域の民族はトルコ民族である。
同じ民族の名前を国名とするのがトルコ共和国であり、イスタンブールを首都にしている。
トルコの民族もトルコ民族だ。

モンゴル帝国がその領土を西に拡大していく際、東トルキスタンあるいはその西にも住居を構えていたトルコ民族は、一部奴隷として連れて行かれた。
その行き着いた先が現在のトルコである。

当初はモンゴルの帝国であったが、モンゴル帝国がその勢力を弱めていくと、
その地のトルコ民族がそこに新たな王国を築き上げていった。

それがオスマントルコであり、その勢力は拡大し、東ローマ帝国を滅ぼし、
一時はオーストリアのウイーンをもう少しで落とすところ
だった。
ヨーロッパからすると、16から17世紀当時はオスマントルコの文化はヨーロッパよりも数段優れていた。
それは、イスタンブールの現在の町並みを見てもわかる。
ヨーロッパの中世の文化的建造物がチッポケなものに見えるほどの
規模の大きさと豪華さである
から
オスマントルコ帝国の宗教はイスラム教であり、
バルカン半島(ギリシャ・ユーゴスラビアなどの場所)は、一部強制的にイスラム教に改宗されたが、その名残で旧ユーゴスラビアにはイスラム教を信仰している民族がいた。

しかし、ヨーロッパで産業革命が起こり、科学が発達すると
その地位は逆転し、数々の領土が北はロシアから、東西はイギリスなどのヨーロッパから削られていく。
その先便を切ったのはフランスのナポレオンで、簡単にエジプトを落としてしまったために、
欧州諸国はオスマントルコに対するこれまでの恐怖感がなくなっていった。
奪った領土は植民地化していったため、アラブ人はその時初めて植民地化されてはいるが
自分たちの民族の国を手に入れる。
それまでアラブ人はペルシャ人、モンゴル人、トルコ人の帝国の下にいたからだ。

このオスマントルコの衰えによって出てきた問題が「東方問題」であり、主に
黒海周辺の中央アジア近辺の覇権争いであった。
主役はロシアであり、この南方進出をイギリス・フランスがいかに阻むかの争いであった。

現在のイランはモンゴル帝国が撤退した後、終始ペルシア帝国が存在した。
現在のイランはそのペルシア帝国の跡を継いだ国です。
よって、イランを他のアラブ諸国と同列に見るのは少しおかしい。

ここまでがこの本を読んで私が穴を埋めることができた箇所です。
20世紀に入ってからの中東に関してはこれ一冊では難しいので、
改めて別の本で勉強しようと思いました。

<人工孵化>
エジプトの養鶏農民が人工孵化の新技術を発明し、
これをはじめてみたヨーロッパ人を驚かせた。
1655年にエジプトを訪れたフランス人旅行者ジャン・ド・テブノーは、次のように書いている。

私がカイロで見た驚くべき事柄の筆頭は、鶏の人工孵化技術だった。
雌鶏が卵を抱いて温めることなしに雛が孵化するなどということはお伽話だと思うだろう。
そしてまた、卵が重量で量り売りされているのにさらに驚くだろう。
だが、それは本当の話だ。
彼らは卵を炉に入れ、自然のぬくもりに似た穏やかな温度で温め、孵化されるのだ。

<ジハード>
ジハードという言葉は、便宜上「聖戦」と訳されているが、文字通りの意味は「努力」、
もう少し具体的に言えば、「コーラン」の一節にある「神の道に奮闘努力すること」である。
ムスリムの神学者、とりわけ近代の学者の中には、「神の道に奮闘努力する」という義務を、
精神的・倫理的な意味に解釈する人達もいる。
だが、初期の権威者の圧倒的多数の人達は、「コーラン」や
伝承の関連箇所を引用して、「ジハード」を軍事用語として論じている。

<文化の不連続性>
インドや中国では、連綿と続いている学問の伝統のなかにある
遠い過去の記録が未だに大切にされ、研究されている一方、
古代中東では、そうしたものは紛失したり、忘れられたり、
文字通り葬り去られたりしてしまった。
中東の諸言語は死語となり、原典に残された文字はだれも読むことができない。
彼らの信仰した神々は、はるか昔の時代に属していて、

少数の専門家や学者にしか知られていない。
中東には、インドとか中国のように具体的な集合名詞さえない。
われわれの世紀になって、はじめは西欧で、やがて世界のその他の地域で、
最後にようやくこの地域の人々のあいだにも、
「中東」あるいは「近東」という輪郭も形態も、色彩もはっきりしない、
全く相対的な名称で知られるようになったのはそのためである。



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