化学物質はなぜ嫌われるのかの著者の本
製薬企業は、大学や公的機関がよだれを流すほどの潤沢な研究費に恵まれている。
製薬会社は軒並み総売上の約20%という巨額を新薬開発に投じており、
世界最大手・ファイザーの研究開発費は年間9000億円近くにも上る。
他の多くの製造業の研究費が売上高のせいぜい2~6%前後でしかないことを思えば、
製薬業界の研究開発費がいかに突出して高いかおかわりいただけるだろう。
ではこれだけの頭脳と資金を投入している製薬業界は、
どれくらいの新製品を世に出しているか
驚くなかれ、年間たったの15から20製品にすぎない。
これは一社の製品数ではなく、全世界数百社の製品を合わせた数字だ。
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実は、医薬となる化合物は、先ほど述べたた「特定のタンパク質と結合し、
その働きを調整する」という条件を満たしただけでは成立しない。
医薬は目的のタンパク質に辿り着くまでに、
生体が備えた何重もの防御システムを突破しなければならない。
この監視者たちの目を盗んで体内に侵入するため、
医薬はあれだけ小さなサイズである必用があるのだ。
ーー中略ーー
水と一緒に飲み込んだ医薬は、まず胃に到達する。
これが第一の関門だ。
酸というものは、効率よく有機化合物を分解してしまう能力を持つ
ーー中略ーー
胃酸は御存知の通り、pHおよそ1.5という強烈な酸だ。
ここにペプシンなどの消化酵素が混じり、
摂氏37度の温度でぐいぐいと撹拌されるのだから、
胃の中というものは医薬分子にとっては極めて過酷な環境だ。
ーー中略ーー
この地獄のような胃袋をどうにか耐えぬいて腸に送られると、
一転して環境はアルカリ性へ変化し、今度はタンパク質や糖類をバラバラに分解する、
高性能な消化酵素たちが待っている。
ーー中略ーー
医薬は小腸の腸壁から吸収され、血管に入り込む。
この時、腸や血管を構成する生体膜を通過せねばならないが、
これもなかなか侮りがたい関門だ。
膜は厚さが一億分の一メートルという極めて薄いシートなのだが、
タンパク質などの大きな分子を極めて効率よくブロックする。
また膜はリン脂質やコレステロールといった「油っぽい」成分からできているから、
水溶性の高い分子とはなじみが悪く、これを通せんぼしてしまう。
ーー中略ーー
さてようやく小腸から血管に入り込んでも、医薬の冒険はまだ終わらない。
今度は血流に乗って肝臓へと送り込まれることになる。
実は、ターゲットタンパク質というゴールを目指す医薬によって、肝臓こそは最大の敵なのだ。
一般に水溶性が高い化合物は簡単に尿から排泄されるが、
脂溶性の高いものは脂肪などに溶け込み、体内に蓄積しやすい。
そこで肝臓は様々な代謝酵素を繰り出して体内に入り込んできた異物を代謝し、
水に溶けやすくして排泄を容易にする機能を持つ。
医薬もまた体にとっては異物に他ならないから、
この肝臓の代謝機構にとっては格好の標的となる。
肝臓の代謝・解毒機構は人体を守る大切なシステムだが、
医薬及び医薬研究者の側からすれば、肝臓は無慈悲な破壊マシーンでしかない。
ようやく肝臓を脱出しても、血液中にも「敵」は潜んでいる。
血清の50から65%を占めるタンパク質、アルブミンだ。
アルブミンはその表面に脂溶性の高い分子を吸着してしまう性質を持つ。
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バイアグラは、当初狭心症の薬として開発が進められていた。
狭心症は心臓の冠動脈が詰まって血流が止まる病気であるから、
血管を広げてやれば発作は治まるはずである。
しかし実際には、この薬の狭心症に対する効果は低いものだった。
(中略)ところがこの臨床試験の過程で、
男性の服用者に勃起現象が起きることが判明した。
この薬は目的の冠動脈には作用しなかったが、陰茎周辺の血管には作用して充血を促し、
結果として勃起が起きるということが明らかになった。
開発を進めていたファイザー社はこの結果を見て思い切ってED(勃起不全)治療薬
へと方針を切り替え、こちらの用途では臨床試験は見事成功を収めた。
偶然から生まれたこの薬は画期的新薬として世界の話題をさらい、
同社に年間3000億円もの売上をもたらすベストセラー薬となったのは御存知の通りだ。
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物理学者であり文学者でもあった寺田寅彦は、
理系と文系の融合を試みた作品を著し、優れた金言を数多く残した。
彼の残した言葉の一つに
「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、
正当にこわがることはなかなかむつかしい」
というのがある。
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南アフリカの前大統領であったターボ・ムベキは、HIV薬の副作用だけを強調し続け、
決して自国での使用を認めようとしなかった。
実際には副作用の危険より、エイズのもたらす危険のほうがはるかに大きいことが、
厳密なデータに寄って実証されているにもかかわらずだ。
彼は「西洋の会社が作った医薬などは、全てアフリカを害するための策略である」
と公言し、ドイツのメーカーによる抗HIV薬の無償供与さえ拒絶した。
科学的データに基づいたエイズ対策を進めようとした保健省副大臣を罷免し、
レモンやニンニクでエイズが防げると主張した人物を大臣に就けた。
この結果、長らくエイズ治療薬は南アフリカの医療現場に導入されず、
同大統領の辞任までに250万人が死亡、
3万5千人の乳幼児がエイズに感染したと推計されている。
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医薬の価格も、メーカーには決定権がない。
自社製品の価格を自分で決められない製造業というのは、医薬品業界くらいのものだろう。
薬の価格すなわち薬価は、公定価格として国が取り決め、
税金や健康保険から支払いが行われる仕組みになっている。
つまり医薬品メーカーの収益は、基本的に公金から得ていることになる。
薬価は、原則的に二年に一度、市場で流通している価格に合わせて改訂される。
販売競争などにより、流通価格は決められた薬価よりも低めになっているのが普通だ。
すなわち、二年ごとに薬価はほぼ間違いなく引き下げられていく運命にある。
苦労して市場に送り出した自社製品の価格が、二年ごとに平均5から7%ほど、
場合によっては15%も下げられてしまうのだから、
医薬品メーカーにとっては極めて厳しい足かせだ。
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日本メーカーが世界に打って出る先といえば、どうしてもアメリカとなる。
アメリカの医薬品市場は約42兆円、
世界2位である日本市場の約6倍という突出した巨大市場であり、
ここで各国の医薬品メーカーがしのぎを削っている。
人口・経済力を勘案してもあまりに異様なこの市場規模には、それなりの理由がある。
「自由競争」を何よりも重んじるアメリカでは、薬価制度でも日本と大いに異なるシステムが採られているのだ。
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医薬品クライシス 佐藤健太郎
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