フィリピンのルバング島に昭和49年まで”たった一人の戦争”を続けていた
小野田さんの自伝
小野田さんは陸軍中野学校二俣分校の出身です。
この学校の跡地は天竜市二俣町にあるそうです。
小野田さんは、帰国時、当時の田中角栄内閣より、お見舞金として100万円をもらったのだが、
記者から何に使うか聞かれて、
「靖国神社に奉納する」
とおっしゃったそうです。
これが報道されると「軍国主義に与する行為」であるという手紙などが来て非難されたそうです。
また、のちになって小野田さんがお金を靖国神社に寄付したのは、
政府から多額な補償金を内緒で受け取ったからだ、という噂がながれたのだそうです。
小野田さんは、何でもカネ、カネの戦後日本人に絶望し、
ブラジルに移住しました。
その後、昭和55年、川崎で「大学受験浪人が就寝中の両親を金属バットで殴り殺した事件」が発生し、小野田さんは
「子供がおかしい。
このままでは日本はダメになる。
子供たちに本当のたくましさや優しさ、生きる目的を見つけてもらうために、
私にできることはないだろうか」
と考え、福島県に常設の財団法人「小野田自然塾」を設立しました。
小野田さんは最後に次のように書いている。
戦後五十年の今年、阪神大震災に続き、日本中を震撼させた地下鉄サリン事件、
子供たちのいじめ自殺まで、「生と死」を考えさせられる事件が頻発している。
私は戦後での30年、「生きる」意味を真剣に考えた。
戦前、人々は「命を惜しむな」と教えられ、死を覚悟して生きた。
戦後、日本人は「命を惜しまなけれないけない」時代になった。
何かを”命がけ”でやることを否定してしまった。
覚悟をしないで生きられる時代は、いい時代である。
だが、死を意識しないことで、日本人は「生きる」ことをおろそかにしてしまってはいないだろうか。
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たった一人の30年戦争 小野田寛郎
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