第二次大戦中、陸軍武官だった小野寺信の奥さんが書いた本
小野寺信さんは、大戦中、多くの国(主にヨーロッパ)の大使館で武官としてその国の将軍などの軍部と連絡を取り合ったり、情報を取得したり、交流を深めたりしていたようです。
敗戦後、ヨーロッパから日本に引き揚げることになった際のこと
ナポリから夫は二本の同文の同一語電報をスウェーデン陸軍長官ユング中将宛に出した。
一本はバスの運転手に金を渡して託し、
一本は乗船直後、船の無線室に飛び込んで発信を依頼した。
ヨーロッパを去るにあたり、長年のご支援を心から感謝し、併せて貴軍の繁栄を祈る。
これだけの電報ではあったが、それが意外な結果であったことに夫は恐縮した。
というのはそれから7年後、海外旅行ができるようになってから夫は商用で
ストックホルムへ行った。
時の総軍参謀長伯爵エーレンスウェード中将はかつて親しくしていた人なので
挨拶しようと思ったところ、一旅行者の夫に対して将官の礼を以って
司令部正面玄関から迎え入れ、
以前のままの打ち解けた態度で次のように話されたということである。
「あなたのあの電報を受けた当時の陸軍長官ユング中将は
直ちに全司令部部員を集めて訓示した。
『困難な状況下にあって、このような丁重な電報を発信することを忘れない
日本将校のサムライとしての折り目正しさを、われわれは範とすべきである』と」
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ポーランドにイワノフという腕利きのスパイがいた
この筋の情報で忘れることの出来ないのは、
1945年2月のヤルタ会談の後で報告してきた、ソ連の対日参戦密約に関するものである。
「ソ連はドイツの降伏より三ヶ月を準備期間として、対日参戦する」
という重大情報を、私は特に心して暗号に組んだことを覚えている。
ーー中略ーー
事実はドイツの全面降伏が5月8日、ソ連の対日宣戦布告が8月8日であったから、
まさにヤルタ会談のとおりであったことを思い知らされたのであった。
このヤルタ密約を報告したストックホルム電が日本の中央まで届いていなかったことを
知らなかった時の夫の驚きは大変なものであった。
夫は自分の報告を、政府はもちろん承知のうえで、
なおかつソ連に英米の和平打診を依頼しようとしたものと思い込んでいたので、
まさか知らないままであのような交渉をしたとは考えもしなかった。
それを知ったのは、モスクワで苦労された佐藤尚武大使の著書の一文
「自分も政府もそれを知らなかったのは深く出会った」を読んだときであった。
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フィンランド人はエストニヤ人と同じく東洋系のフィン族で、
日本に対して特別の尊敬と親愛感情を持つ優秀な民族である。
国境を接するソ連とは昔から紛争が絶えなかったから、
フィンランド軍はソ連に対して常に優れた調査研究を行い、
厳重な警戒を怠らないのが伝統となっていた。
したがって日本陸軍は早くから有力な武官室をヘルシンキに置いて、
フィンランド軍と対ソ問題で密接な関係を維持していた。
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バルト海のほとりにて 小野寺百合子
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