![]() 【送料無料】田沼意次 [ 佐藤雅美 ] |
田沼意次が偉くなった後の政治史を見る本
松平定信との関係がわかってとてもよかった。
田沼意次は、自らの政治的な地位を安定させるため、
将軍家治の側室、お知保(次の将軍になるよていだった家基を産む)に縁のある女を
自分の側女とし、土産を持たせて大奥にあがらせた。
これにより、田沼とお知保は友好関係にあった。
一橋治済は、田沼と同じようなことを考える。
家治の側室にお富というものがあり、それを自分の妻に迎えたいと考えた。
家治はそれを許可した。
1773年1月、お富は一橋邸にはいったが、その「9ヶ月後」、お富は男子を出産した。
この子が、後の将軍家斉である。
田沼は、将軍家治が、日光に参詣できるよう金を集めるため倹約を努めた。
が、それでは実際あまり集まらない。
ちょうどそのとき、御三家田安家の屋敷が焼失し、跡継ぎも次々亡くなったことから
田沼は田安家を取り潰して金を浮かせる。
その割を食ったのが、田安家7男で後の松平定信だった。
取り潰されなければ自分が田安家を継ぎ、後々将軍になれたかもしれないからだ。
取り潰された後、松平定信は白川松平家に養子に出され、
松平定信は田沼意次を憎むようになる。
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田沼意次は、蝦夷の開拓を始め、商売をすることを考えた。
幕府はこれまで商売などしたことがない。
長崎貿易も長崎会所という貿易機関を支配し、ものによっては直接輸入していたものの商売はしなかった。
幕府の組織は商売するような仕組みになっていなかった。
幕府が自分の勘定で商売するのは、このときがはじめてである。
士農工商と、商をいちばん下においた気位の高い幕府が驚天動地のことを行おうとしていた。
このことに田沼はなんのこだわりももたず許可した。
田沼はやはり徳川250年の歴史の中では異色の政治家というほかはない。