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シナ大陸の真相 K・カール・カワカミ

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この著者は日系アメリカ人で、戦前(シナ事変中)に、
日本と満洲や支那との関係について欧米(特にアメリカ)に誤解されている点を正そうとし、
書いたのがこの本

原題は Japan in China で、支那における日本、というのが直訳でしょう

大正時代からシナ事変に至るまでの日、露(ソ連)、清→満州国、中華民国の間の関係を詳しく説明していてとてもおもしろい。


読むと、最近の日本への非難が昔とそっくりなことに驚く。

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1926年11月、中国南部で反英闘争の猛攻撃が行われている最中、
ブハーリンはモスクワで
「コミンテルンは中国革命の創設に努力を集中すべきである。
中国革命はヨーロッパ、とりわけイギリスの資本主義に決定的な打撃を与えるための必要条件として不可欠である」
という声明を発した。

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西安事変、つまり蒋介石が拉致されて国共合作を余儀なくされる署名をさせられたあと

これによって、地下活動に従事していたかあるいは表舞台には姿を現さなかった
共産党の指導者たちが、公然と南京に流入し始めた。
クリスチャン将軍の馬玉祥(彼は評判の反英家、反日家でモスクワの手先であり、
その時はもう既に山東省の泰山に引きこもっていたが)は
一足飛びに国民政府の首府へ戻ってきて軍事上の高い地位を与えられた。
孫科と宋慶齢夫人(孫文のソ連贔屓の息子と孫文の未亡人)は
数年間の比較的埋もれた年月の後に影響力を取り戻した。

中国共産党の文民指導者の周恩来は、党の正式代表として南京に迎えられた。
かつて蒋介石によって抑えつけられていた子雨堅その他の極左たちは、
勢力と影響力をふるい始めた。
新しく組織された国民会議の人員構成は共産党と国民党でほぼ平等に分けられた。
投獄されていた中国人とロシア人の共産党煽動者は釈放された。
騒乱を煽動したソ連の工作員として1931年に投獄されたナウリン夫妻も釈放された。

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コミンテルンとは衆知のごとくコミュニスト・インターナショナルの略称であり、
その世界的な組織網の中心はモスクワにある。
「国民党」を中国語の発音で読むと「クオミンタン」となるのだが、
この国民党が国民政府を支配しているのである。

このコミンテルンとクオミンタンの二つの名称の発音の類似性は偶然ではない。
何故ならば国民党は1923年に再編された時、
コミンテルンのいわば私生児のような存在だったからである。

我々は敢えて「私生児」という表現をする。
何故ならばコミンテルンは自分自身を決して国民党の母体とは認めていないからである。

孫文博士が国民党をコミンテルンの様式に倣って再編成したのは、
ヨッフェやボロディンその他のソ連工作員の助言に従ってであった。

ソ連の工作員達は中国人の組織した共産党を中国の支配政党にしたかったのであるが、
しかし彼らはそのような急激な運動を行うにはまだ時期尚早であると考えていた。
そういうわけで彼らは孫文に、民族主義的な線に沿いながらもコミンテルンの思想と手法をある程度取り入れて旧国民党を再編するようにと助言したのである。

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共産帝国主義は氷河のように東方に向かって進出している。
それは19世紀末から20世紀初頭にかけてのツァーリの帝国主義と同様だ。
それはもう既に外モンゴルを呑み込んでしまい、新疆も事実上併合してしまった。
それは中国の軍閥とりわけ馬玉祥に人員、武器、金を提供することによって、
内モンゴルを吸収しようと目論んだ。

次の簡単な事実に注目してほしい。

面積(平方マイル)人口軍隊
ソビエト帝国9,726,000169,444,0002,000,000
中国1,533,000548,820,0002,500,000
日本624,400121,000,000300,000

日本は朝鮮と満州国を含み、
ソ連は外モンゴルと中国トルキスタンを含む

ここまで
これで日本が軍国主義と呼ばれる理由がよくわからない

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21箇条の要求について

1915年の外交関係に関するアメリカの公式白書は、
「全ての事項を詳細に検討した結果、21箇条要求の内の16箇条については何の異議もない」
という内容をワシントン政府が日本政府に通告してきたことを記している。
これは、満洲及び山東に関する日本の要求に対してアメリカが何の異議も持たなかったことを意味していた。
アメリカが異議を唱えた唯一の要求はグループ五として知られるものである。
このグループ五は日本政府の説明にもある通り、要求ではなく「要望」という形で中国に提出されたものである。
それらは最終的な合意がなされる前に撤回された。

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斎藤博駐米大使の講演録より

国際貿易の分野で日本が果たしている役割に対する大きな誤解がずっとあったのではないか、と私は案じている。
「日本のダンピング」「日本の不正な競争」「経済的黄禍」
などといった叫び声がこれまでしばしば聞かれてきた。
これらの非難はもしもそれらが悪意に満ちたものでないとすれば、いわれのないものである。
日本に対してこれまで向けられてきた非難には次の三つの類型がある。
即ち、(1)為替ダンピング、(2)社会ダンピング、(3)政府の補助金・助成金、である。

まず最初に為替ダンピングを考えてみよう。
日本は自国の外国貿易を助けるために意図的に円を切り下げている、と時々指摘される。
この非難は事実と全く矛盾する。
1931年12月に日本が金本位制を廃止するのを余儀なくされる以前に、
日本の金貨円に対して種々の圧力が長期間及ぼされていたのは、
統計上からも決定的に明らかである。
大英帝国が金本位制を廃止してその結果国際為替市場の変動が生じた時、
日本としてはそれと全く同じ方法をとる以外に選択の余地は残されていなかった。
日本がそれをやったのは単なる便宜主義ではなく、
やむをえぬ必要性に迫られての事だったのである。

さらにその上、下落した円が日本の輸出をある程度刺激したことを認めるにせよ、
この刺激は外国の観察者がしばしば指摘したほど大きな程度のものでなかったことは全くの事実である。
為替の低落は結局のところ諸刃の剣である。
それは暫くの間そしてある程度までは輸出に有利に働くかもしれない。
だがこの利点は逆の影響によってたちまち覆されてしまう。
とりわけこのことは日本の工業に当てはまる。
というのは日本の工業はその原料の大部分を諸外国に依存せねばならず、
それを海外から購入しているからである。

社会ダンピングの問題については、公平で権威のある有能な観察者の言葉を引用しよう。
ジュネーブのI・L・O副議長であるM・F・モーリッツは、
最近の日本視察旅行の後で書いた公式報告書の中で次のように述べている。
「社会ダンピングとは、製品を製造する工場での労働条件を押さえつけるか、
あるいはその労働条件が既に非常な低水準であればその低水準のままに保ち続けることで、
生産コストを下げることにより、国家の生産物の輸出を伸ばすことである、ということが言える。
社会ダンピングという言葉の意味がもしそうであるとすれば、
私が訪問した日本の輸出産業にはそれは当てはまらないと言えよう」


三番目の非難は、日本政府は企業に補助金を出している、というものである。
ここでもまた、この避難は間違っている。
東京駐在のイギリス貿易弁務官は1933年に次のように報告している。
「日本政府が自国の貿易に与えている援助の性質と程度について、
かなり誇張された意見が外国で広まっているのは、
世界の殆どすべての地域からここに集められた報告書を見れば明らかである。
例えば、日本政府は労働者の雇用を確保するために国内の主要産業に助成金を与えている、
と最近指摘されている。
そのような私的は全く根拠が無い。」



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