![]() [単行本]【中古】【メール便不可】黎明の世紀ー大東亜会議とその主役たち/深田祐介 |
大東亜会議の前後を深く掘り下げた本
当時の参加者やその参加者の国の視点からも紹介している。
=============
東條英機
「若い頃そうであったが、とりわけ陸相、首相になってからの(東條の)施政の根本理念は、
『御上のご納得を仰ぐこと』
であった」
「だから上奏する場合まずご納得を仰ぎうるか否かを考える。
ついで上奏したとき、『いけない』と仰せられなくとも、御気色がくもれば引き下がって考えなおすのであった」
「御納得を仰ぐには正式に上奏すべきことでなくても、よく内奏又は中間報告を申し上げた。
それは過度と思われるほどで、私たちは『東條さんの内奉癖』と陰口をきいた。
上奏案は勿論その内奏案にも詳しい説明ばかりでなく、御下問を予想してその答弁まで準備したなければならず、それが多くは軍務局の仕事なので、局長の私以下悲鳴をあげた。」
ここまで
軍部独裁とは程遠いことがわかる
==============
1938年、昭和13年11月20日、日本の影佐禎昭等は、汪兆銘側近の周仏海等と、
まさに日中和平に向けて画期的といえる「日華協議記録」に署名する。
画期的な所以は、中国の満州承認、日華防共協定の締結を条件として、
和平成立後、日本軍が二年以内にほとんど全面的に中国から撤退すること、
治外法権、無賠償、外国租界の撤廃などを日本側が認めている、ところにある。
汪にとり、この日本政府の提示した戦争終結の条件は、中国民衆を戦争の惨禍から救い出し、
中国を復活させる可能性をもたらすものであった。
「日華協議記録」を受けて、10日後の11月30日、御前会議が開かれ、
「善隣友好 防共共同防衛 経済提携」を柱とする
「日支新関係調整方針及要領」を決定する。
ーー中略ーー
汪の重慶脱出に呼応して、時の首相近衛文麿は、
「国民政府といえども新秩序の建設にきたり参ずるにおいては、あえてこれを拒否するものに非ず」の声明(第三次近衛声明)を発表、
「善隣友好 防共共同防衛 経済提携」の近衛三原則を発表した。
この近衛三原則に、すでに日本側の背信の兆しが顔をのぞかせていて、
「日華協議記録」にあった「二年以内の撤兵」が「早期撤兵」にすりかえられていた。
陸軍中央部が猛反対し、近衛が屈したのである。
ーー中略ーー
汪を一番驚かせたのは、近衛声明の一ヶ月後に、近衛が突然内閣を投げ出してしまったことである。
さらに驚くべきは、近衛の後を受けて平沼内閣が誕生すると、
たちまち日本側の態度が豹変してしまったことであった。
新内閣は、汪兆銘を和平の窓口にする熱意を失ったのみか、汪に対して過酷な態度に出る。
ーー中略ーー
撤兵どころか、駐兵区域を一層拡大し、中国北部十三省の「満州国化」を意図、
さらに南京・上海間の鉄道経営権を日本に委任せしめ、海南島にも新たな日本の権益を設定しよう、という厚顔無恥極まる内容で、陸軍参謀本部支那課長今井武夫をして
「近衛声明からの逸脱、遂にここに至るか」と嘆かせたほどであった。
ーー中略ーー
大東亜会議の菊号委員会委員で、戦後外務次官を務めた横田多喜夫によれば、
汪は後年、次のごとく激しい表現を用いて日本を批判する。
「大阪の商工会議所の歓迎会か何かの時ですかね、汪さんがこういうことを言いました。
日本政府に対して言いたいことは山ほどある。
それを要約すると3つの”不”に到達する。
”上下不貫徹、前後不節連、左右不連携”。
上役がよろしいと受けても下が聞かん。
前任者が言ったことを後任者はそんなことは俺は全然知らんと問題にしない。
左右の連携も全く欠けている。
外務省がいいこと言ってくれたと当てにしていると、一つも陸軍は聞いてくれない。
外務省が言ったことなど俺が知るかという態度だと。
これが海軍、陸軍、外務省全部に通じる。
これが日本の悪いところ」
===============
満州
建設の成果について二、三の数字を拾うならば、国家財政は、
建国当初歳入歳出合計二億七千余万円であったものが、
十年後の今日においては、実にその十六倍余たる44億5千余万円に成長した。
また鉄道の延長は六千キロが一万二千キロに延び、
教育面では初等学校児童は50万人から250万人へと著しい就学数の増加をもたらした。
また産業面では、石炭の生産量が4倍に、銑鉄が5倍に、それぞれ飛躍的な発展を遂げている。
この他に、国民の保健衛生施設の改善等、枚挙に暇がないが、顕著な一例を挙れば、
阿片の撲滅である。
米英が東亜侵略の手段に用いながら、今に至ってにわかに人道の名において悪声を放つ阿片吸引の風習は、建国当時アヘン常用者130万であったものが、
今日では極めて僅少を残すのみとなった。
ごく近き将来においては、完全に跡を絶つべきことが期待される。
===============
バー・モウが述べた如く、英国はインド人を兵士や下級官僚に登用、ビルマの統治にあたらせ、
ビルマ人自身は社会最底辺の農奴的状態に置かれていたが、
オランダの統治下にあったインドネシア人の置かれている状況もビルマと大同小異であった。
ただオランダの異なるところは、インド人を使ったりせずに、
徹底的にオランダ人自身による直接統治を敷いた点である。