【新品】【2500円以上購入で送料無料】【新品】【本】【2500円以上購入で送料無料】大山倍達正... |
極真会館の創始者、空手バカ一代のモデルである大山倍達
戦後日本の闇を動かした「在日人脈」の本で、大山倍達が在日朝鮮人だったことを初めて知りました。
まあ、それはどうでもよかったが、彼の伝説の大半がデタラメだったというので、
参照しているこの本を借りてきた。
結論としては、彼の伝説の大半がデタラメだったわけですが、
それにもまして戦後のヤクザ、北朝鮮、韓国の関係がわかり、とても良かった。
大山倍達は1923年6月4日、東京で生まれた、ということになっているが、
実際には1921年6月4日、現韓国の全羅北道金堤郡龍池面臥龍里に生まれた。
名前は崔永宜
日本国籍と韓国国籍もある、法的には二重国籍になっている。
戦前には満州にいた事になっているが、それも嘘で、彼は出生地である全羅北道にいた。
戦時中、大山は軍役についたことになっているし、特攻隊に志願したことになっているが、実際には徴用工として飯場で働いていたにすぎない。
大山は、早稲田大学に1946年入学し、1948年除籍されている。
空手バカ一代にあるような一年以上の山篭りをしたことはない。
短期間山篭りをしたが、それは修行ではなく、当時の師である曹寧柱が、大山の素行の悪さを嘆き、寺に預けた、ということのようです。
大山は1691年、池田勇人内閣のもとで通産大臣を務めた佐藤栄作のボディガードを務めたとされている。
山篭りをしていた、とされる時期、大山は、
現在の在日本大韓民国民団(通称 民団)の前身である
在日朝鮮建国促進青年同盟(通称 建青)の幹部として、
現在の朝鮮総連の前身である朝連との闘争を繰り広げていたようです。
大山は、自分の朝鮮出身の過去を隠すために、(だけではないだろうが)
自分の過去を隠し、別の過去を作り上げたとこの本では書いている。
大山倍達の「倍達」に朝鮮半島では深い意味があるという。
宝島30(1994年7月号)より
「倍達」という名は、朝鮮民族にとって非常に由緒ある名前である。
僕が普段使っている天理大学編纂の『現代朝鮮語辞典』でひいてみると、
倍達とは、「朝鮮の上古時代の称号」となっている。
つまり日本における「ヤマト」などのように、朝鮮の国家・民族そのものを、
誇りを込めて言う時に用いられてきた言葉なのである。
しかし、この名前を曹寧柱から名付けられたときは、大山さんは意味を知らなかったようです。
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永宜(大山倍達の本名)の家が全羅北道のなかでは有数の豪農であり、絶大な権力を有していたことは何度も書いてきた。
しかし一方で、永宜が育った「全羅道」は朝鮮史上、常に差別の対象とされてきた地域である。
全羅道は朝鮮半島にあっていつの時代も支配される側の立場だった。
以下は、「新・韓国風土記第二巻 全羅北道・全羅南道」に記されている一文である。
「全羅北道は朝廷が置かれた地方とは程遠く、民衆が暮らしを営むだけの地方であった。
後百済が滅んで以後の全羅北道には、朝廷が置かれる王都が築かれたことがなかった」
「(全羅北道は)支配する側ではなく支配される側、働かせる側ではなく働く側、奪い取る側ではなく奪い取られる側」
また「韓国と韓国人」(小針進・平凡社)では、朝鮮・韓国史上、全羅道が国の実権を握った時代は一度もなかったとして、以下のように記している。
「湖南(光州広域市、全羅北道、全羅南道の総称)はつねに周辺勢力であり、統治の対象にしかなかってこなかったのである。
統一新羅から李朝に至るまで韓国の支配勢力は嶺南(釜山広域市、大邱広域市、蔚山広域市、慶尚北道、慶尚南道の総称)と現在のソウル・京畿道地方によって独占されてきた。
支配権力体系から排除された地域の中で、最も裕福な生産力(湖南は米作で有名)と資源を保存してきた湖南と北朝鮮側の平安道に対しては、支配勢力に挑戦(反逆)することへの警戒心が注がれた一方、これらの地域に対する否定的な地域偏見も生まれていった」
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後に日本最大の広域暴力団・山口組三代目組長となる田岡一雄は、
「山口組三代目 田岡一雄自伝(電撃編)」(徳間書店)のなかで次のように記している。
「現在では到底考えられぬことであるが、当時はそれほど警察は三国人に対して無力だったのである。
三国人の暴虐非道に対して身を挺して楯となり、防波堤となったのは全国のヤクザであった。
(中略)われわれが率先して治安を守らなければならぬ時代だったのだ」
ーー中略ーー
また戦後のヤクザや愚連隊に詳しい猪野健治は、「愚連隊伝説 彼らは恐竜のように消えた!」(洋泉社)に
「<戦後復興>と共に歩み<高度経済成長>によって消えた愚連隊」
と題した文章を寄せている。以下が抜粋だ。
「占領下にあって連合国待遇者(第三国人)に対する警察権の行使が困難だった当時、
ヤクザが警察の前面に立ったのである。
新橋事件では警察OBが松田組組員に拳銃射撃を教えたと言われ、
西神戸事件では山口組の田岡一雄組長が神戸市長から台湾人アウトローによる土地不法占拠の”解決”を依頼されて組員を出動させている」
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記録によれば、1946年1月、尾津喜之助を理事長とする日本人ヤクザの連合組織・東京露天商同業組合は「三国人」の在京華僑連合会や朝鮮人団体を訪ね、
「禁制品の販売や価格違反などの自粛」を求めたとされている。
だが、この協議は決裂に終わった。
以後、朝鮮人が支配する闇市は彼らが拳銃などを所持して武装することで完全に治外法権化された。
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戦後に少年期を過ごし、致知を通じて大山との交流を持ったビストン堀口の長男・堀口昌信(東日本ボクシング協会理事)は言う。
「大山さんは戦後、かなり羽振りがよかったはずです。
私は当時、『三国人』を羨望の目で見ていました。
特にオオヤマさんは、まるでアメリカ映画に出てくるギャングのようにソフト帽をかぶり、ウールの背広姿をしていました。
日本人がつぎはぎだらけの野良着を着ていた時代にです。
当時、日本人はドルが使えなかったけれど朝鮮人は使えた。
進駐軍専用の『PX』という売店にも出入り自由でした。
PXで買った舶来品を日本人相手に売ると元値以上の金額でさばけました。
そんないろいろな方法で朝鮮の人たちは日本人とは比較にならないほどいい暮らしをしていたんです。」