著者の短編論評集
5つの論評のなかで、
タイトルになっている「からごころ」と、「大東亜戦争『否定』論」が良かった。
<まえがき より>
「だからやっぱり日本人はダメだ」
何につけても繰り返される、このリフレインの如き決まり文句を耳にする度に、
鬱勃とわきのぼってくる反抗と憤りの感情。
ーー中略ーー
「お前はダメだ」
と言われたのならば、ただ頑張れば良い。
ダメだと言われた自分を脱して、ダメでない自分になるためにこそ、そういう叱責はある。
けれども、この「だからやっぱり日本人はダメだ」という一言は、
すべてのそうした頑張りの行く手を閉ざしてしまう。
日本人であるお前は、どこをどうあがいても、ダメなのだからダメなのだ。
ーー中略ーー
実は、そう宣告しているのが他ならぬ日本人達ではないか、
と気づいたのは、よほど後になってからのことであった。
気づいてみれば、腹を立てたことさえもがアホらしい。
藁人形を相手に歯ぎしりをしていたようなものである。
ーー中略ーー
「日本的なもの」をどこまでも追求してゆこうとすると、もう少しで追いつめる、
という瞬間、ふっとすべてが消えてしまう。
我々本来のあり方を損なう不純物をあくまでも取り除き、純粋な
「日本人であること」を発掘しようと掘り下げていて、ふと気がつくと、
「日本人であること」は、その取り除いたゴミの山の方にうもれているーー
至るところで繰り返されるそうした逆転それ自体に注目すること。
それを教えてくれたのは、この「からごころ」という言葉である。
それまでは、ただの濃密な「謎の気配」でしかなかったものが、この言葉によって、
にはかに形をなし、動き始めたのである。
われわれ日本人の内には、確かに、何か必然的に我々本来のあり方を見失わせる機構、
といったものがある。本居宣長はそれを「からごころ」と呼んだ。
<訓読>
小林秀雄は、まず上代日本人のこの努力の出発点である「訓読」に注目し、
それを「離れ業」と呼ぶのであるが、この呼び方には、
ただの修辞という以上の意味が込められている。
訓読について考えることの第一歩は、まず、それが我々にとって極自然な、
おなじみのものであることを忘れることである。
そうして、生まれて初めて訓読というものを知った人の目で眺めれば、
これはまさに「離れ業」と呼ぶほかないものなのである。
というのも、いまだ訓読ということを知らぬ人の目には、
漢文は「中国語」として読む他ないものだからである。
人々が話、語る、中国語という言語がまずあって、
それが漢字、漢文で書き表されるようになってきたのであるという、
このあたり前の事実を思い出せば、漢文を「中国語」として読むよりほかないと見るのは、
極めて自然のことである。
また実際、大部分の人々はそう見ていたのである。
当時の中国周辺を見回して見るに、文字を持たないのは日本ばかりではなかった。
ほとんどの民族が、漢字に接してはじめて文字というものを知ったのである。
そして漢字は中国語の文字であり、漢文は中国語であるという当然の事実に従って、
大部分の民族が、その初めて「渡参来た漢籍」を、中国語として読んでいた。
おそらく、それ以外の受け入れ方は想像することも出来なかったことであろう。
<仮字という大発明>
(ブログでは著者の文章をそのまま表現できないので自分の言葉にしてみる)
日本において、漢文には、レ点一二点のように読み方を変えるものと、
日本人が読みやすい、訓読みしやすいように「仮字」を置く
なぜこれが大発明かというと、
通常、漢文は漢文の文字の通り読むことが求められる。
それなのに、日本人はそこに訓点をつけて後ろから読んでみたり、前に戻ってみたり、
訓読みをするために仮名を付けたりした。
これは画期的なことであり、これによって母国語と漢字の隔たりを無くし、
母国語を残すことに成功しました。
私たちはカタカナにたいして、漢字の音を借りて、
複雑な字形から簡略な記号を見つけて作り上げた、という点に着目しがちだが、
それは日本人としては些細なことにすぎない。
漢字を漢字の音通りに読むというルール・大原則を完全に無視して
漢字をただ「音をうつす道具」として使うことに成功した
そういう意味での大発明なのです。
(以後、本より抜粋)
たとえば朝鮮半島の新羅には、ちょうど日本の万葉仮名とおなじような表記法である
「郷札(ヒヤンチヤル)」が生まれたが、これは郷歌(ヒヤンガ)と呼ばれる古い歌謡をいくつかと
その他わずかの文献を残すのみで、いつの間にか消えてしまった。
<日本を救った漢意>
幕末、アジアに押し寄せているのは、有無を言わせぬ「力」というものを持った西欧文化である。
この文化は、触れるすべてのものを「力」に換算してしてしまうという特質を持っている。
ーー中略ーー
そういう広く大きな危機を目の前にして、まずすべきこと、と人々が考えたのは、
自らもその「力」を身につけるべくただひたすら努めることであった。
ーー中略ーー
しかし、ここで振り返っておどろくべきことは、そもそもその一番実際的な道をとることができた、
ということなのである。
ある人は、江戸時代を通じて蓄積されてきた、日本の高い技術と知識とが、
そういう西欧文化の素早い消化吸収を可能にしたという。
あるいは、日本全体の教育水準が、その時既に、
世界のどこへ出しても引けをとらないものであったことをいう人もいる。
ーー中略ーー
おそらく、そのどれもが必要な条件であったろう。
しかし、さらにその上にもう一つ、どうしても欠かせない大切な条件があった。
それは、自分たちの学ぼうとしているものが、ある「普遍的なもの」だと思い込むことである。
それが南蛮夷狄の文物であることを忘れることである。
人間には、軽蔑しながら学ぶ、ということのできるものではない。
蒸気機関車も28サンチ砲も、憲法も帝国議会も、
すべて所詮は毛唐の発明した道具に過ぎず、制度にすぎないではないか、
と、ひとたびそういう風に見えてしまったらば、もう、
それを大真面目で学ぼうということは不可能となる。
いくら、それが自分たちの国家と文化を守るのに必要であるとわかっていても、
それだけでは人は心から学ぶことはできない。
すでに自らの文化の水準が高ければ高いほど、その高さそのものが、
異文化の産物を学ぶ妨げとなるのである。
それを思えば、明治時代の日本について驚くべきことは、むしろ、
すでにあれほど高い水準の文化と技術を持ちながら、
それにもかかわらず、あれほどすばやく西欧の文化を消化し、
同化することができたということだ、とさえ言える。
<抹殺された言葉>
戦争から「敵」という事実を完全に無視して、片側の行為だけを描写すれば、
これはただ気違いの行為としか見えない。
あるいはただ残虐の一語に尽きる。
そして戦時中の日本人の行為を、まさにそういうものであったとわれわれは教わったのである。
実に見事なまでに、われわれの世界から「敵」の一語が抹殺された。
かろうじてスポーツの世界、ヤクザの世界、共産党の世界に
この概念が保たれているとも言えるが、およそ国際的なことが問題となる世界からは
完全に消滅したのである。
これは非常に危険なことである。
何故ならば「敵」という言葉を失った者が、次の戦争が起こらぬためにはどうしたら良いか、
と考えようとしても、ただ自分の国を見張るしか策がないからである。
ひょっとして(十分ありそうなことであるが)隣国ロシアが攻めてきたらばどうするか、
そもそも攻めてこさせないようにするにはどうしておいたらよいのか、
といったごく常識的な「反戦」の要心さえもが、一種の主義、主張であるかのごとく
肩を怒らせなければ語れない。
今の日本を見ていると、あたかも人々の心のなかから、
戦争の起こる本当の原因というものは中々わからないものだ
と思う謙虚な気持ちがすっかり失せてしまったかに見える。
その謙虚があってはじめて、日々にわれわれを取り巻く森羅万象の何処に
火種の不始末がありはせぬかと見直す要心もおこる。
ところが戦争を起こしうる原因は唯一つ大日本帝国の軍国主義だけだ
ということになってしまっているのであるから、われわれは目下のところ、
本当の戦争の危険については国中でしっかりと瞼を閉じているのに等しい。
これはちょうど、戦時中大部分の人々が自分たちが相手にしているものの
強さ大きさに目を閉じて戦っていたのと似ている。
ただし、実際に橋台なものに襲われてもはや逃げることもできない時の唯一の策は、
ただしっかりと目を閉じて遮二無二暴れまわることである。
戦時中の日本人はその唯一の策に従って行動していたのだとも言える。
しかし戦うのではなく要心をすべき者が目を閉じていてはお話にならぬ。
我々はまず、「敵」という言葉を怖れずに、正確に、
あの戦争は一体なんであったかを振り返る必要がある。
戦争前に生まれたものは自らをもう一度知りなおすために。
終戦後に生まれたものは、自らを生み出したものを正しく知るために。
少なくともそれだけのことは是非しておかなければならない。
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からごころ 長谷川三千子
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