昭和天皇の伝記(主に第二次大戦前後まで)
とても興味深い内容でした。
昭和天皇の幼少期の養育係だった、足立たか、という女性は
大正4年に鈴木貫太郎海軍少将に嫁ぎました。
やがて鈴木貫太郎は大将となり、昭和4年には昭和天皇の侍従長となる。
この鈴木貫太郎こそが1945年4月から8月まで首相をつとめていた鈴木貫太郎です。
===============
天皇も(昭和20年)6月中旬には今や和平を講ずべき時が来たとの決心を固められた模様である。
そして6月22日には最高戦争指導会議の成員6人(首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長)をお召になり、懇談という非公式の形で、然し異例のことに先ず天皇から談話の口火を切られた。
「6月8日の会議で、あくまで戦争を継続すると方針を決定したけれども、この際今までの観念にとらわれることなく、戦争終結についても、すみやかに具体的研究を遂げて、これが実現に努力することを望む」
という意味のことを仰せられたのである。
===============
対米宣戦布告が遅れた時の日本大使館で翻訳を担当していた奥村勝蔵
彼は終戦後、昭和天皇とマッカーサーの会談における通訳を行っている。
この会談は秘密にする約束であったが、奥村は後年この内容を詳細漏らさず人に漏らしている。
「今回の戦争の責任は全く自分にあるのであるから、自分に対してどのような処置をとられても異存はない。
次に戦争の結果現在国民は飢餓に瀕している。
このままでは罪のない国民に多数の餓死者が出るおそれがあるから、米国に是非食糧援助をお願いしたい。
ここに皇室財産の有価証券類をまとめて持参したので、その費用の一部に充てて頂ければ幸せである」
と陛下が仰せられて、大きな風呂敷包みを元帥の机の上に差し出された。
すれまで姿勢を変えなかった元帥がやおら立ち上がって陛下の前に進み抱きつかんばかりにして御手を握り、
「私は初めて神の如き帝王を見た」
と述べて陛下のお帰りの時は、元帥自ら出口までお見送りの例をとったのである。
「奥村元外務次官談話記録」(「昭和の民のこころ」所収)