産経新聞で毎週日曜日連載されている 「子供たちに伝えたい日本の近現代史」
その戦前編が本になったことで少し話題になりました。
学校教育以外で歴史を学んでいない方、近現代史を通して見ていない方は読んでみてもいいと思います。
私からすると、ちょっといい方にしか書いてないんじゃない?と突っ込みたくなる。
今の歴史教育ほどではないが、(逆方向に)若干偏りが見られる。
=============
1905年、ポーツマス条約を締結するために小村寿太郎がアメリカシアトルに着いた時のこと
5日間のアメリカ大陸横断の旅だったが、3日目の朝、列車が山の中の駅に着くと、
線路脇に日本人らしい男5人が日の丸を持って立っている。
十数キロ離れた森林で働いている日本からの移民たちだ。
小村の一行が通ると聞き、夜を徹し歩いてきたのだという。
小村は「達者で働いてくれ」と声をかけたが、その眼は濡れていた。
遠くから祖国を思う気持ちがヒシヒシと伝わってきたからだ。
=============
ワシントン条約による軍縮
大戦後の不景気でとても米、英などの建艦競争には勝てないことがわかっており、むしろ「渡りに船」だったのである。
この結果、海軍の予算は大正10年には国家予算の3分の1に当たる5億円近くだったのが、12年には2億8千万円に削減された。
海軍が「成功」すると、世論は陸軍にも軍縮を求めた。
特に大正11年2月1日、日本陸軍の生みの親で長州閥のドンでもある山県有朋が亡くなると、
国民の間から一斉に軍批判の声が上がる。
伊藤政則の「軍閥興亡史」によれば、当時の軍人は
「電車に乗るにも軍服では気が引けて、人混みの場所にはなるべく平服で行くような」状態だった。
=============
アメリカ議会に提出された法案にはその趣旨と関係ない条項が入っていた。
「帰化を許されない外国人移民」を全面的に禁止するというものだった。
「帰化を許されない外国人」とは中国、インドを含むアジア人を差別する規定だった。
そして日本人を除くと、すでに移民を禁止されており、日本だけを「列強扱い」で除外されていたのだ。
新移民法は、その日本からの移住も全面的に禁止するものであり、日系人が反発するのは当然だった。
この新移民法に排日項目を潜り込ませたのは、アルバート・ジョンソンら排日派ともいえる上下両院の議員たちだったが、排日運動の歴史は1890年代まで遡る。
特に日本人移民の多い西海岸のカリフォルニア州などでは顕著だった。
===============
盧溝橋事件
二十数年前、第三営の指揮をとっていた金振中営長が手記を公表、
この中で「日本軍が近づいたら銃撃してもよい」と命じていたことが分かり
「中国側の第一発」でほぼ決着した。
だが日本では、「西安事件」以来、国民党と日本を戦わせようとしていた共産党の党員が国民党軍の第三営にもぐりこみ、発砲したとの説も根強い。
=============
河北を巡っては、満州国との間に「緩衝地帯」を置きたい日本の関東軍が昭和11年11月、
北京城外の通州を「首府」とする親日的な冀東(きとう。河北省東部)防共自治政府を発足させた。
これに対し国民政府も軍人の宋哲元を委員長として、北京に冀察政務委員会を設けて関東軍と緩衝政府とし、その南下を防ごうとした。
このため日中間には一応の「平和」があった。
==============
ミッドウェー海戦
米軍は司馬氏が指摘するように、日本軍の暗号を解読することでほぼその全容をつかんでいた。
ただ攻撃地として暗号にある「AF」については測りかねていた。
だが試しにミッドウェーの基地から「蒸留施設が壊れ、飲水に困っている」という偽の無線を打ってみた。
これを傍受した日本軍が「AFは真水に困っているらしい」と暗号電報を打ったため、ミッドウェーだと確信する。
↧
子供たちに伝えたい 日本の戦争 産経新聞社 皿木喜久
↧