この本は、満州関連の歴史の本でよく取り上げられている。
日露戦争後の満州の歴史を満鉄調査部の観点から見ている。
============
風采の上がらない士官が手を挙げた。
具島の印象では「百姓のおやじに軍服を着せたような」士官だった。
彼は、ゆっくりと自分の意見を述べた。
「自分は具島さんの意見に賛成だ。
アメリカと戦うなどとは、アメリカの実力を知らないから言えるのだ。
彼らの生産力は底知れぬ物があり、海軍の将兵の動作もキビキビしている。
自分は軍人だから陛下の命とあればアメリカとも戦うが、しかし、せいぜい暴れてみせても半年だろうね」
会合が終わってから、具島は士官の1人に「さきほど発言された方はどなたですか?」と聞いてみた。
それほど、風采の上がらぬ海軍士官の発言は印象的だった。
士官は「あの方が、山本五十六閣下です」と答えた。
=============
当時(日露戦争後)の満州の産業事情について、上田恭介(秘書課長)は次のごとく語っている。
「産業はほとんど零といってもいい位のもので、清朝は満州に起こって北京に君臨し、
三百年の後には全く漢人化していたので、満州は単に自分の祖先の発祥地として大事にしただけで、
満州にある満州人までが漢人化してしまい、かえって漢人の手先として使われ、
小作人になるような憐れな有り様であったので満州には全然産業はなかったと見てよろしい。
しかもポーツマス条約に依って継承した満鉄線は、すべてでわずかに700マイルしかないのみならず、地域的にも満州の南端にちょっぴりある限りで人口希薄の広大茫漠たる満州で700マイルくらいの鉄道を持ったところで、到底営利的に経営できないわけだった」
=============
「西原借款」は全部で八口、総額1億4500万円に達する規模である。
当時、大蔵省でこの事務にあたっっていたのは、若き日の大内兵衛(東大名誉教授)事務官であった。
さて、「西原借款」は結果的には”うたかたの借款”に終わった。
1億4500万円も融資しながら、元利ともに回収できたのは交通銀行借款の500万円だけであった。
==============
古賀薫は「在満三十年の思い出」の中で、「中村震太郎大尉事件」のあと、
関東軍参謀の花谷正少佐が大連の社員会で満州視察の報告をしたと、記している。
その記事によると、花谷は四点をあげている。
一、満州は張作霖によって満鉄線は包囲されている。
一、満州内の満人はこれを四種類に区別される。
軍匪(兵匪)、学匪、政匪、商匪で、
その他は庶民で三千万人口中庶民は八割を占めている。
この庶民が長い間これら四匪その他の輩から苦しめられている。
一、寒帯地であるが、地下資源も木材も豊富、日本の二倍にわたる広大なる土地であり、農作物も豊富である。
一、よって日本人としては四匪を排除し大衆の庶民と苦楽を共にして楽土を建設せよ。
===============
調査部の準備が昭和14年の1月1日から始まったとはいえ、
その年の大卒ではすぐに調査には役立たない。
そこで、既に実績のある「学識経験者」を入れることになったが、
日本内地でも戦争経済に突入しているから、インテリ失業者はそれほどいるわけではない。
やむをえず、内地で社会主義運動や労働運動をして弾圧され、いわゆる「転向」をした人ならかまわずに採用することになった。
堀江邑一、岡崎次郎、伊藤好道、山口正吾、藤原定、川崎巳三郎、平舘利雄、具島兼三郎、石堂清倫、石田精一、藻谷小一郎、野々村一雄、安藤次郎、土岐強、佐藤洋、石川正義、鈴木重蔵、西雅雄、細川嘉六、尾崎秀実、伊藤律
戦後、社会・共産両党に名を連ねた錚々たる顔ぶれも見える。
=================
敗戦後にソ連が進駐すると、ポポフという教授が日本語の達者な男女数人を率いて、
大連図書館と満鉄調査部資料室の蔵書を一冊残らず押収し、
さらに大連と旅順の間にある営城子というゴルフ場の地下室に保管してあった
膨大な調査書類も荷台のトラックで持ち去った。
![]() 《朝日新聞社朝日文庫》草柳大蔵◆実録満鉄調査部 上下揃 【中古】afb |