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叛骨の宰相 岸信介 北康利

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この本、とても面白い。
岸信介が生まれてから安保改定に至るまでの本です。

著者を調べてみると、「白洲次郎 占領を背負った男」の著者だった。
この人、とても文が上手いと思いました。
続けてこの方の本を読んでみたいと思います。

読んで思ったのが、岸信介が天才である、ということ
孫の安倍晋三さんも比較されて大変だと思います。

岸信介は、佐藤家に生まれるが、父秀助の実家である、岸家の養子となったため、
岸を名乗っている。
中学3年生で岸家の良子という許嫁に実質婿養子に入ったということだろう。
だから、佐藤栄作とは兄弟だが、苗字が異なる。

岸信介の幼少期を面倒見てくれた吉田祥朔(義理の叔父)の長男は、吉田茂の長女と結婚している。
吉田祥朔の前に面倒見てくれた佐藤松介の娘寛子は佐藤栄作と結婚している。
岸家、佐藤家、吉田家は遠い縁戚にある。
つまり、安倍晋三さんと麻生太郎さんは遠い親戚同士

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岸は宮崎正義の原案を引き継ぐ形で重工業を中心とした総合的開発を目指し、
「満洲国産業開発五カ年計画」を実行に移していく。
同計画は、5年の間に総額25億円(当時の年間国家予算は約23億円)もの金を投入し、
製鉄産業を中心とする重工業の一大拠点を満州の地に作りだそうというものであった。

この計画はドイツの産業合理化にソ連の五カ年計画を加味したものである。
こののち岸たちは革新的発想で日本経済の大転換を図る官僚集団ということで
”革新官僚”と呼ばれていくが、そこには多分に社会主義的発想が加味されていた。

この当時、計画経済や統制経済は、経済伸張の切り札として世界的流行を見せていた。
ナチス政権下の経済政策の他、自由主義経済のメッカであるはずのアメリカでさえ、
計画経済的なルーズベルト政権下のニューディール政策が世界恐慌からの復活の処方箋となっていたのだ。

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岸たちによって満州で実験された産業振興策は大成功をおさめ、その多くが国内に逆輸入されていくことになる。
実際、満州で制定された主要な法律
(国家総動員法、重要産業統制法、貿易統制法、臨時資金統制法、米穀管理法など)
を見ても、のちに戦時下において重要な役割を果たすものばかりだ。

海外からも注目された。
「フォーチュン」日本特集号(1936年9月号)のなかで、二度のピューリッツァー賞に輝く
アーチボルド・マクリーシュは日本経済躍進の秘密に触れ、
「日本の国際競争力の優位は画一的でまとまりのある適応力に優れた社会システムによってもたらされ、そうして国が一丸となって努力するに至った。
そしてそれは、どの国も真似ができない」

と絶賛している
(小林英夫ほか『「日本株式会社」の昭和史』)

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統制会を通じた間接的な企業支配では生ぬるいとして、企業経営者に生産責任を負わせ、
利潤追求を基本的に放棄させることが決められた。
営利企業の否定である。
軍需会社の指定を受けた特別に重要な企業は、昭和20年3月の時点で678社に及び、
これらの会社では社長の選任・解任政府が許認可権を持つこととなった。
人事権を持たないのでは、もう民間企業とは言えまい。

その代わり資金調達の心配からは解放された。
大蔵省から特定の金融機関が割り振られ、資金が安定供給されることとなる。
これは株式による資金調達中心の戦前型企業の経営形態を根本から変え、
戦後のメインバンク制につながる制度改革だった。

この間接金融中心の資金調達形態が戦後になってもずっと続いたのは、
”資金の安定供給”という点に関して言えば、企業と金融機関が岸の壮大な実験を肯定的に受け止めたということではないだろうか。

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天照皇大神宮教と岸信介
天照皇大神宮教の教祖・北村サヨ

岸が北村サヨと初めて会ったのは、敗戦直後の8月17日のことである。
彼女がいきなり家にやってきたのだ。
このときの岸は、坐骨神経痛が悪化して僅かな振動でも飛び上がりたくなるほど傷んだため、
クッション代わりに藁を入れたベッドに寝ていた。

噂には聞いていたが、北村サヨの舌鋒は鋭く、雄弁な岸も言い返す隙がない。
この日は特に元気がなかったから、ただただ目を白黒させるばかりだった。

『うまく乗ってきたら、その神経痛みやげに持って去んじゃる!」
そのうちサヨは、そんな言葉を残して引き上げていった。
疾風が吹き抜けていったようだった。

ところが、しばらくすると不思議なことが起こった。
それまで苦しみに苦しんでいた神経痛がころっと治ったのである。
サヨが本当に持って行ってくれたと感じた岸はお礼に行こうとするが、
その前日に逮捕命令が来て外出できなくなってしまう。
すると彼女の方から来てくれ、こう予言した。

「三年行って来い!来年できる神の世に生かして使う!」
(三年?)
そんなことを言われても、一時の気休めのようにしか聞こえない。
ーー中略ーー
この三年後、北村サヨの予言はずばり的中するのである。

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のちに佐藤栄作が首相になって三木を外相にすると言ってきたとき、やめるようアドバイスしたが佐藤は取り合わなかった。
然し後日、
「ああいう人を外相に起用したのは、私の不明のいたりでした」
としみじみ語ったという。

佐藤は日本の政治家で初めてノーベル平和賞を受賞し、吉田茂同様存命中に大勲位を授与されたが、
佐藤が亡くなった時に首相だった三木は国葬にするべきだという声に耳を貸さず
”国民葬”に格下げし、準備委員長にもならず、全首相の田中角栄がこれを務めるという異例付く目の対応だった。
佐藤は最後まで恩を仇で返されたのだ。
ただ葬式の場で、大日本愛国党の党員に三木は二発殴られた。



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