有名な江戸時代の書物、葉隠を三島由紀夫が解説した本
三島由紀夫の解説よりは、後半にある訳文が良かった。
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批判の仕方
意見してその人の欠点を直す、ということはたいせつなことであり、慈悲心とも言い換えられる。
それは、ご奉公の第一の要件である。
ただ、意見の仕方に骨を折る必要がある。
他人のやっていることに対して善悪を探しだすということはやさしいことで、また、それについて批判することも容易い。
大方の人は、人の好かない、言いにくいことを言ってやるのが親切のように思い、それが受け入れられなければ、力がたりなかったとしているようだ。
こうしたやり方はなんら役立たずで、ただいたずらに人に恥をかかせ、悪口を言うだけのことと同じ結果になってしまう。
いってみれば、気晴らしのたぐいだ。
意見というのは、先ず、その人がそれを受け入れるか否かをよく見分け、相手と親しくなり、こちらのいうことをいつも信用するような状態に仕向けるところから始めなければならない。
その上で趣味の方面などから入って、言い方なども工夫し、時節を考え、あるいは手紙などで、あるいは帰りがけなどに、自分の失敗を話しだしたりして、余計なことは言わなくても思い当たるように仕向けるのが良い。
まずは、良い所を褒めたて、気分を引き立てるように心を砕いて、喉が渇いた時に水が飲みたくなるように考えさせ、そうした上で欠点を直していく、というのが意見というものである。
意見というものは、ことのほかしにくいものといえる。
だれにでも年来の悪癖みたいなものが身に染み込んでいるので、そうすぐには直らないということは、私自身にも覚えのあることだ。
友達一同、常日頃親しくして、悪癖を直し合い、ひとつの心になってご奉公につとめるようになることこそが、本当の慈悲心といえるだろう。
それなのに、恥をかかせては直るべきものも直らないことになってしまう。
直るはずもないではないか。
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自分の定見を持たないこと
きまった、固定的な考えを持つことが悪いのである。
精進して定見などできると、もうそれで終わったと早合点してしまうからダメなのだ。
精進に精進を重ねて、先ず基本的なことだけはしっかり自分のものとし、やがてそれが成熟するように心がけて修行することである。
とにかく修行は一生やめてはいけない。
自分で見出したぐらいのものをもって、これでもう良いと思うことなど、とんでもない話だ。
あれもこれもまだまだと思って、どうしたら真実を発見できるだろうかと、一生それを探し求め、心から修行すべきなのである。
こうした修行のうちにこそ、つまりは真の道理といったものが見いだされるのである。
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