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若い読者のための世界史 エルンスト・H・ゴンブリッチ

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読売新聞のネット上の中学生新聞のコラムに「中央公論新社が選ぶ「頭が良くなる5冊」」で紹介されていたので借りてきた。

たしかに、この薄さではよくカバーしている。
が、個人的にはわかりにくいというか読むのが退屈な部分が多かった。
事象がブツブツ切られていて、前後関係がよくわからない箇所が多い。
この薄さでは避けられないのかもしれませんが

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ムハンマドは、自分に味方する者たちをメッカから出し、自分を支持してくれる砂漠の町へと逃した。
そして暗殺者が押し込んできた時、家の裏窓から抜け出し、他の者達が待つ街へと向かった。
それは、622年7月16日のことであった。
以後、ムハンマドの信奉者は、この「逃亡」(アラビア語でヒジュラ)を、
ギリシア人がオリンピアードを、ローマ人がローマの建国の日を、
キリスト教徒がキリスト誕生の日をそうするように、彼等の暦の起源とした。

のちにその名誉を称えて「メディナ」(預言者の町)と呼ばれたこの都市でムハンマドは、熱狂的に迎えられた。



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ローマ人が「ジュウニ」をXII、112をCXII、1112をMCXIIと書いたことも知っているね。
ならばこのようなローマ数字で、足し算や掛け算をしなければならないとしたらどうだろう。
だが君も知る通り、私たちのアラビア数字では、それは容易にできるね。
このアラビア数字は、かんたんに美しく書けるだけでなく、桁という、まったく新しい考え方をもたらしたのだ。
たとえば、1の右横に別のふたつの数字がならべば、その1は100という価値を持つ。

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1420年ころフィレンツェ人はとつぜん、自分たちが中世の人間とは違うことに気づいた。
自分たちはなにか違う評価をしている。
自分たちは、前の人達とは違うものを美しいと見ている。
自分たちには、古い聖堂や絵が暗くてかたく見え、古い風習がたいくつに思える。
そして彼等は、彼等が愛するのと同じ自由なもの、自立したもの、偏見のないものを探し求めた。
そして、彼等は古代を発見した。正しく発見した。
彼等には、古代の人間が異教徒であったことは問題でなかった。
そして彼等は、かつて素晴らしい人間がいたことに驚いた。
ーー中略ーー
フィレンツェの人々は、目の色を変えてラテン語の書籍を求め、真のローマ人と同じほど、
上手に明快にラテン語が書けるよう努めた。
またギリシア語も学びペリクッサよりも、テミストクレス、アレクサンドロス、カエサル、アウグストゥスに親しんだ。
ーー中略ーー
人々は突然、はるか遠い昔のギリシア・ローマ時代が、
ここに「ふたたび生まれた」と思った。
彼等自身が、その古い作品で生き返ったと感じた。
彼等のあるものは、「リナスキメント」(イタリア語)あるいは「ルネサンス」(フランス語、いずれも「再生」の意)について語った。


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1500年頃

司祭や修道士たちの多くは、教皇に気に入られるため、教会の教えとは合致しないやり方で資金を集めることを始めた。
彼等は、罪の赦しを金に変えた。
「免罪符」とよばれるものを売ったのだ。
たしかに教会は悔いた罪は赦されると教えた。
しかしこの「免罪符売り」は、その教えと合致するものではなかった。

そのころドイツのヴィッテンベルクに、アウグスティヌス修道会に属すマルティン・ルターという名の修道士がいた。
1517年、当時の最も有名な美術家ラファエルのもとで新しいサン・ピエトロ大聖堂の建設は始まった。
同じ年、その資金を集めるためにひとりの免罪符売りがヴィッテンベルクにもやってきた。
その時ルターは、この非教会的な免罪の濫用を世に知らせようと、95項目の条文を書いた板をヴィッテンベルクの教会の扉に打ち付けた。
ーー中略ーー
このことをルターは、やがて免罪とその濫用をめぐるはげしい争いの中で、いっそうはっきりと、そしてもはや絶対的なものとして主張するようになった。
信仰以外、何も要らない。
信者をミサを通して神の恩寵に参加させる司祭や教会さえ、無用である。
神の恩寵は、仲介されるものではない。
ただ神に対する個人の堅い信頼と信仰のみが、信者を救うことができる。
教えの大いなる秘儀、聖なる晩餐にてキリストの肉を食しキリストの血を杯で飲む、ただこの大いなる秘儀を信じるだけである。
何人といえども、他人を助けて神の恩寵を得させることはできない。
信じる者は彼自身が司祭である。
教会の司祭は、たんに教師、協力者にすぎない。
それゆえ彼も、他の人間と同じに生きることが許され、結婚も許される。
信じる者に教会の教えはいらない。
彼は自分で、聖書の中に神の教えを探せば良い。
聖書の中にあるもの、それだけがすべてである。

これがルターの考えであった。

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その城でのみずから選んだ捕囚の時間をルターは、聖書をドイツ語に翻訳することに使った。
彼は、だれもが聖書を読めること、だれもがそれについて考えることができることを望んだのだ。
しかしそれは、簡単なことではなかった。
というのは、ルターはすべてのドイツ人が彼の聖書を読めることを望んだからだ。
しかし当時、全てに共通するドイツ語は存在しなかった。
バイエルンではバイエルンの方言が、ザクセンではザクセンの方言が書かれ、話されていた。
そこでルターは、だれもがすぐに理解できる一つの言語を新たにつくろうとした。
そして彼は、事実彼の聖書翻訳で、わずかに変化しながらも400年経った今日なお私たちの書き言葉とされるドイツ語を作り上げたのだ。


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状況は、わたしたちがルネサンスと呼ぶ時代、すなわち1500年頃、すなわち新しいピエトロ大寺院が建てられ免罪符が売買されていた時代に、絶大な勢力を誇り、豪奢をつくしていた教皇たちのもとですでに悪い兆しを見せていたのだ。
これらの教皇は、神の教えに決して敬虔とはいえず、むしろ迷信的であった。
彼等は、悪魔を恐れ、あらゆる魔術を恐れた。
すばらしい芸術作品で後世にその名を伝えるルネサンスの歴代の教皇は、とくにドイツの魔法使いや魔女を徹底して迫害するために、極端なまでの命令を下した信仰の権力者でもあったのだ。

きみは、実際にないものをどうやって迫害するのか、と疑問に思うだろうね。
じつは、それがまさに恐ろしいことなのだ。
ある村の一人の女声が人に好かれていなかった。
どこか気味が悪く、不愉快に思われていた。
すると突然、「あいつは魔女だ、雹が降ったのも村長の腰がいたいのも、あいつのせいだ」
という評判が立つ(ぎっくり腰は今日でも「魔女の一撃」と呼ばれるね)。
その女性は捕らえられ、悪魔と手を結んでいるのかと問いただされる。
もちろん彼女は、びっくり仰天して否定する。
しかし彼女は責めさいなまれ、痛みと絶望の半死の状態で、
人々が前もって指摘していたことすべてを認める。
魔女であることを認めたのであるから、彼女の終わりである。
生きたまま焼かれる。
それだけではない。
彼女は拷問の間に、ともに魔術を行った者がまだ村にいないか問い詰められる。
多くの者は、虫の息で、責め苦を逃れようと思いついたままの名をあげる。
するとその女性も逮捕され、白状を迫られ、そして日に焼かれる。

最悪であったのは、30年戦争のあとのころであった。
いたるところで、カトリック、プロテスタントを問わず、何百、何千の人々が焼き殺された。







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