この著者は、日本帝国海軍の将官で、彼の目から見た対米戦争について語っている。
著者自身、政府から終戦工作の密命を帯びていたぐらいだから、
この本には大きな史料としての価値があると思う(超一級とはいえないが)
==============
藤田尚徳 「侍従長の回想」より
なぜ(昭和天皇が)開戦前に、戦争を阻止しなかったのか、という議論であるが、
なるほどこの疑問には一応の筋は立っているようにみえる。
いかにも最もと聞こえる。
しかし、それはそうは出来なかった。
申すまでもないが、我が国には厳として憲法があって、天皇はこの憲法の条規によって行動しなければならない。
またこの憲法によって、国務上にちゃんと権限を委ねられ、責任を負わされた国務大臣がある。
この憲法上明記してある国務各大臣の責任の範囲内には、天皇はその意思によって勝手に容喙し干渉し、これを掣肘することは許されない。
だから内治にしろ、外交にしろ、憲法上の責任者が慎重に審議を尽くしてある方策を立て、
これを規定に従って提出して裁可を請われた場合には、私はそれが意に満ちても、満たなくても、よろしいと裁可する以外に執るべき道はない。
もしそうせずに、私がその時の心持ち次第で、ある時は裁可し、ある時は却下したとすればその後責任者はいかにベストを尽くしても、天皇の心持ちによって何となるかわからないことになり責任者として国政につき責任を取ることができなくなる。
これは明白に、天皇が憲法を破壊するものである。
専制政治国ならばいざしらず、立憲国の君主として、私にはそんなことは出来ない。
===================
内閣の不成績は全く時間を空費した印象が強かったが、
私にとっては重大な使命がふりかかる結末となった。
それは兵学校校長井上中将が、岡次官に代わって8月5日に着任、米内海相と腹を合わせて、
戦争の終結に向かって本格的に取り組んだのである。
井上中将は次官就任前、7月28日京都の都ホテルで米内海相と会見し、政治嫌いで中央進出をいやがる中将を、
「政治に関する時は、天井を見て遊んでいていいから・・・」
と口説き落とされて次官に就任した経緯はあるが、さていよいよ次官になって大臣を補佐する立場になると、政治問題に関連しないものはほとんどないといっても過言でなく、
ーー中略ーー
低い声だが、きびしい表情に変わった次官は、
「戦局の後始末を研究をしなけりゃならんが、こんな問題を、現に戦争に打ち込んで仕事をしている局長に言いつけるわけにいかん。
そこで大臣は、君にそれをやってもらいたいとの意向だが、差し支えないかね」
大臣の命とあれば否応をいう余地はない。
われわれの待望した大臣、次官である。
「承りました。ご期待に添えるかわかりませんが、最善を尽くしてみます」
次官はそれを聞いてからさらに付け加えた。
「このことは大臣と総長と私のほかはだれも知っていない。
部内にも漏れてはマズイから、君は病気休養という名目で出仕になってもらうつもりだから、いいね」
「けっこうです」
===============
米英の対日降伏条件の予想として左の十三項を掲げた。
一、無条件降伏、即時停戦
二、効果的かつ恒久的武装解除
三、戦争責任者の処罰(ご譲位を含む要求)
四、植民地の返還、領土一部の奪取
五、朝鮮の独立、台湾の返還
六、満州国の解消(支那への還付)
七、米英との協調的政治体制の樹立(民主主義的)
八、軍事的保障占領(航空基地等の管理、破壊、占領)
九、航空工業のほか重工業の禁止または管理
十、現物補償
十一、秘密結社の解散(右翼反動団体)
十二、国民教育及び一部信仰への干渉
十三、全占領地域の放棄、所在軍隊の武装解除
右の予想はほとんど全部的中し、加えて財閥解体、農地解放、憲法改正の強制などが追加されたことは周知の通りでここに述べるまでもない。
ここまで
当時の人たちも、朝鮮/台湾/満州国は植民地として認識していなかったことがわかる
著者自身、政府から終戦工作の密命を帯びていたぐらいだから、
この本には大きな史料としての価値があると思う(超一級とはいえないが)
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藤田尚徳 「侍従長の回想」より
なぜ(昭和天皇が)開戦前に、戦争を阻止しなかったのか、という議論であるが、
なるほどこの疑問には一応の筋は立っているようにみえる。
いかにも最もと聞こえる。
しかし、それはそうは出来なかった。
申すまでもないが、我が国には厳として憲法があって、天皇はこの憲法の条規によって行動しなければならない。
またこの憲法によって、国務上にちゃんと権限を委ねられ、責任を負わされた国務大臣がある。
この憲法上明記してある国務各大臣の責任の範囲内には、天皇はその意思によって勝手に容喙し干渉し、これを掣肘することは許されない。
だから内治にしろ、外交にしろ、憲法上の責任者が慎重に審議を尽くしてある方策を立て、
これを規定に従って提出して裁可を請われた場合には、私はそれが意に満ちても、満たなくても、よろしいと裁可する以外に執るべき道はない。
もしそうせずに、私がその時の心持ち次第で、ある時は裁可し、ある時は却下したとすればその後責任者はいかにベストを尽くしても、天皇の心持ちによって何となるかわからないことになり責任者として国政につき責任を取ることができなくなる。
これは明白に、天皇が憲法を破壊するものである。
専制政治国ならばいざしらず、立憲国の君主として、私にはそんなことは出来ない。
===================
内閣の不成績は全く時間を空費した印象が強かったが、
私にとっては重大な使命がふりかかる結末となった。
それは兵学校校長井上中将が、岡次官に代わって8月5日に着任、米内海相と腹を合わせて、
戦争の終結に向かって本格的に取り組んだのである。
井上中将は次官就任前、7月28日京都の都ホテルで米内海相と会見し、政治嫌いで中央進出をいやがる中将を、
「政治に関する時は、天井を見て遊んでいていいから・・・」
と口説き落とされて次官に就任した経緯はあるが、さていよいよ次官になって大臣を補佐する立場になると、政治問題に関連しないものはほとんどないといっても過言でなく、
ーー中略ーー
低い声だが、きびしい表情に変わった次官は、
「戦局の後始末を研究をしなけりゃならんが、こんな問題を、現に戦争に打ち込んで仕事をしている局長に言いつけるわけにいかん。
そこで大臣は、君にそれをやってもらいたいとの意向だが、差し支えないかね」
大臣の命とあれば否応をいう余地はない。
われわれの待望した大臣、次官である。
「承りました。ご期待に添えるかわかりませんが、最善を尽くしてみます」
次官はそれを聞いてからさらに付け加えた。
「このことは大臣と総長と私のほかはだれも知っていない。
部内にも漏れてはマズイから、君は病気休養という名目で出仕になってもらうつもりだから、いいね」
「けっこうです」
===============
米英の対日降伏条件の予想として左の十三項を掲げた。
一、無条件降伏、即時停戦
二、効果的かつ恒久的武装解除
三、戦争責任者の処罰(ご譲位を含む要求)
四、植民地の返還、領土一部の奪取
五、朝鮮の独立、台湾の返還
六、満州国の解消(支那への還付)
七、米英との協調的政治体制の樹立(民主主義的)
八、軍事的保障占領(航空基地等の管理、破壊、占領)
九、航空工業のほか重工業の禁止または管理
十、現物補償
十一、秘密結社の解散(右翼反動団体)
十二、国民教育及び一部信仰への干渉
十三、全占領地域の放棄、所在軍隊の武装解除
右の予想はほとんど全部的中し、加えて財閥解体、農地解放、憲法改正の強制などが追加されたことは周知の通りでここに述べるまでもない。
ここまで
当時の人たちも、朝鮮/台湾/満州国は植民地として認識していなかったことがわかる
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