中村久子さんは幼少期に両手両足を壊疽して切断することになりました。
私のように五体満足な人には想像もできない苦しみがあったのだろう、と思います。
しかも彼女は戦前・戦中・戦後という激動を生き抜いた人でもありました。
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四肢障害者が逆境に生きていることは決して幸せでもなければ、喜ぶべきことでもない。
四六時中、頭のなかを去来するものは、死、のみでした。
祈り求める”死”に直面せず、求めざる”生”のみ押し寄せて、
そこにさまよわねばならぬとは、目に見えぬ宿業の深さ、悲しさでありましょうか。
その頃でも生活困窮者や不自由者には最低生活が保証されていたので、
適用をと考えましたが、私の場合、何年こうした支給を受けたら自活ができるか見通しもつかず、
それに町役場から下付されるお金は国のお金です。
高山の町で邪魔者にはなったが、町のためには何一つとして役に立ったことのない自分が、
このお金をいただくことはもったいない、手足がなくても生きている以上は
自分で働いて生き抜こう、と決心しました。
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「中村さん、中村さん」と岩橋先生のお声、(中略)みすぼらしい人形を持ってでました。
岩橋先生が英語で私を紹介されました。
それを秘書のトムソン女史が指先によって(指話法)伝えられると、
ケラー女史(ヘレンケラー)は私の傍に歩み寄り、熱い接吻をされた、
そして、そうっと両手で私の両肩から下へ撫で下ろされるとき、
袖の中の短い腕先に触られた刹那、ハッとお顔の動きが変わりました。
下半身を撫で下ろされた時、両足が義足とお分かりになった
再び私を抱えて長い間接吻され、両眼から熱い涙を、私は頬を涙に濡らして
女子の左肩にうつ伏しました。
二千余の聴衆も誰一人として、顔を上げ得る人は無く、さしもの大会場も一瞬は、
すすり泣きの声のみ。
全く生まれてはじめての大きな感激でした。
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「ある ある ある」
さわやかな
秋の朝
「タオル 取ってちょうだい」
「おーい」と答える
良人がある
「ハーイ」という
娘がおる
歯をみがく
義歯の取り外し
かおを洗う
短いけれど
指のない
まるい
つよい手が
なんでもしてくれる
断端に骨のない
やわらかい腕もある
何でもしてくれる
短い手もある
ある ある ある
みんなある
さわやかな
秋の朝
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終戦後、と申しましても十数年も過ぎまして、ようやく「福祉法」が充実されつつあることは、
おおきな時代の恩恵と申さねばなりません。
「片輪者は人間ではない」と、冷たい目で見られた昔日とは比べ物にならない
雲泥の開きがあることを思います時、時代の恩恵に心から感謝あるのみでございます。
しかし、何十万の障害者が、福祉法を足場にして国や政府に、年金を申請されて
今は待望のお金を受けられるようになったとはいえ、
それで障害者が物心両面に果たして救われてゆくでしょうか?
それよりも各自障害者の残存している手とか足、目や耳などを生かして使っていくことが、
真に人間として生きていく最も正しい方法と思います。
けれどそれには今よりももっと”はたらく場所”を国家の政治によって設置していただかねばなりません。
身体障害者職業訓練所、指導所は国立、府立、県立、などご承知のように
たくさんございます。
一年間または二年間の補導を受けてみたところで
一体どの程度の技芸が身につけられているかを、
国も政府も見直し考えていただきたいとおもいます。
満足な体の人間でも、年数を重ねなければ一つの仕事も身につけることはできません。
昔のように十年も十五年もの年期入れはいたしませんが、
それでもお礼奉公とも六年はつとめるように聞いております。
私のお願い申し上げたいことは、身動きもならぬ重障害者で生活のお苦しい方だけに
「手当金」を支給してくださいまして、訓練所よりも訓練所を出た生徒たちが
お互いに助けあって、働ける場所を各地の県や市町村に
もっと建ててくださいますことを念願する次第でございます。
何十万人の障害者全部が、お金をいただくことばかりを願っているのではありません。
ほとんどの障害者が「はたらける場所」を望んでおられることを、
社会と政府のお偉い方に、もっとわかっていただいて
他人に頼らず、生きるところを作ってくださいませ。
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こころの手足 中村久子
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