シャルル・ド・ゴールは現在のフランスの第五共和政を築いた元大統領であり、
第二次世界大戦中のフランスの英雄でもある。
ドイツに降伏したフランスは親ドイツ政権たるヴィシー政権を樹立したが、
ヴィシーは人の名前ではなく、地名です。
ヴィシー政権に反発するド・ゴールは、当時大佐だったが、亡命政府を結成し、ドイツと戦う。
当時の亡命政府の代表として存在していたが、
国民の付託を得ていないということで、アメリカのルーズベルトからは全く公認されなかった。
つまり、ヴィシー政府こそがフランスの公式政府であるという認識は覆られなかった。
1944年8月25日、フランスを撤退することになったドイツはパリを爆破することを命じた(ヒトラーが)。
が、責任者のフォン・コルティッツはその命令を果たさなかった。
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(戦後)人々の対独協力者(コラボ)たちに対する日頃の憎悪の暴発は止めようがなかった。
開放直後にこのコラボたちが、街頭に引き出され、私刑にあったり、
惨殺された光景の記録は写真や映画などに残されている。
「ユダヤ人狩り」の協力者や密航者たちに対する制裁であった。
ドイツ人将官の情婦となった女達は、頭髪を剃られ、裸にされて群衆に罵倒されながら街頭を追われた。
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戦後、最も大きな飛躍を遂げた政党は、50万人の党員を擁した共産党であった。
国内レジスタンスの先頭に立ち、最も多くの犠牲者を出したことからすれば、それは当然であった。
45年10月選挙では得票率26.12%を記録し、大幅な勢力増大を示した。
各県の解放委員会(CDL)や全国抵抗評議会(CNR)などに共産党勢力は大いに浸透していた。
「愛国衛兵(ギャルド・パトリック)」という民兵組織をもっていたことも強みであった。
ーー中略ーー
トレーズ書記長はド・ゴールと交渉の末、共産党の民兵組織の非武装化と秩序維持の尊重を約束したのである。
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戦勝国とは名ばかりで、フランスの戦争の犠牲は甚大であった。
老若男女併せて60万人が死亡した(第一次大戦では135万人)。
戦後の復興には500万人の労働力が不足していいると言われていた。
ーー中略ーー
1938年を100とした工業生産指数は、44年にはわずかに38,45年でも50に留まり、
19世紀末の水準であった。
農業生産性は22%も減少していた。
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第一党となった共産党は組閣にあたって全閣僚のポストの3分の1と外務・内務・国防の主要閣僚のうちの一つを要求した。
ド・ゴールは対外政策と深く関わるこれらのポストを通してソ連の影響力が浸透していくことを懸念した。
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アロンの言葉を借りると、
「もしドイツがわれわれと共に再建されないならば、我々に敵対して再建されるであろう」
という危惧が常にフランスにはあった。
終戦直後のフランスの対独政策は、非武装・地方分権化・連邦主義・ライン川緩衝地帯化・ザール地方の関税経済同盟化などドイツ弱体化を強く望んだものだった。
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同年(53年)8月26日のド・ゴールのメッセージが彼の本音をよく示していた。
「ある国民がもはや軍隊を持たなくなった時、彼らは外交の方向性をもはや持たないことになる。
軍隊をもはや持たず、外交の方向が形式に定められているとすれば、
彼らはもはや魂を持たないのである。(中略)
欧州委員とは国籍を持たない小人どもだ。(中略)
我々の立場は形式も、ピリオドにもとらわれない、それはまさしくフランスの生命であり、死であるからだ」
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憲法制定後(第五共和政)の58年11月の国民議会選挙では
新しく結成されたド・ゴール派の「新共和国連合(UNR)」が驚くべき進出を遂げた。
他のドゴール派と合わせて第一回投票では20%の票を獲得、212の議席を得て第一党となった。
これに第二党となった、共和主義右派=穏健右翼と、
アルジェリア選出の右翼を加えると保守派は全議席の70%にあたる378議席を獲得した。
社会党は、47議席、共産党はわずかに10議席を獲得したにとどまった。
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62年3月に再開された交渉はアルジェリアの独立(サハラを含む)を承認したエビアン協定の調印に成功した。
この協定によって、アルジェリアの独立、領土保全、停戦、捕虜の交換、三ヶ月から六ヶ月以内の国民投票の実施、
アルジェリア人は向こう三年間フランス国籍を選択する権利を持つこと、
ヨーロッパ人の財産・不動産の尊重、大企業の権益を保証する石油協定締結などが約束された。
独立は認めるが、フランス軍の駐留、油田層と原爆・ミサイル実験基地の利用の権利を維持し、フランス国籍を望むイスラム教徒の保護などが認められた。
それらのことはフランスがどうしても譲れぬ一線だった。
しかし、協定締結に至るまでフランスのアルジェリアに固執する極右・過激派の活動は凄惨を極めた。
とくに、OAS(秘密軍事組織)は四人の将軍の反乱後、更に活動を強化した。
(中略)ドグルドルはテロリスト500人を配下に従え、「デルタコマンド」という組織を結成していた。
61年5月からOASは政府機関や要人に対するテロ活動の開始を公然と宣言した。
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