戦後から高度経済成長期の日本の大蔵省で、主に国際的な取り決めに関わっていた方の本
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戦後暫くの間は、日本は自由な国際貿易を認められず、
食料品や原材料を中心とする必要物資の輸入とその代金確保のための輸出が、
GHQの勘定
(いわゆるスキャップ勘定。SCAPはGHQのフルネーム
<General Head-quarters of the Supreme Compmanders for the Allied Powers>の一部頭文字をとったもの)
その仕組は、GHQによって輸入された物資は日本政府(貿易庁)が引き取って国内業者に売り渡され、
一方、輸出はGHQの指示で日本政府が必要物資を国内業者から買い上げて調達するというものだった。
民間貿易はできなかった。
1947年後半になると、東西冷戦の始まりを契機として、日本経済の復興を積極的に支援する方向に占領政策が変わり、
民間貿易の再開により輸出振興が考えられるようになった。
ーー中略ーー
民間貿易が再開されたものの、貿易管理の仕組みは変わらなかったので、
商品ごとに異なる複数為替レートが存在することになった。
輸出品は原則としてそれぞれの公定価格で政府に買い上げられて、
国際価格でスキャップ勘定を通じて海外に輸出され、
スキャップ勘定で輸入された物資は同じく公定価格で国内業者に売却された。
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1991年9月の委員会で、私は、日本が戦後短期間にうまく統制経済から市場経済に移行できたのは次の三点に追うところが大きいと説明した。
第一点は、超の字がつくほどの均衡財政に徹したこと。
ドッジ・ライン実施時に総予算の30%を占めていた価格補助金はその後二年間に段階的に撤廃し、税制面でも効率的な改革を進めて短期間に財政を立て直した。
第二点は、早い段階で単一レートの採用に踏み切ったこと。
産業の国際競争力がない状態で単一レートを設定するのは難しい問題ではあるが、
日本の場合、それによって産業界に目標ができ、360円レートで生き残れる経営を目指して必死に努力したことがその後の経済成長に結びついたと思う。
三番目に指摘したのは、国内貯蓄を動員する金融制度改革に成功したこと。
もう少し具体的に説明すると、本来流動的な国民の少額貯蓄を幅広く吸い上げて長期資金として産業投資に振り向ける仕組みを作り上げたこと。
郵便貯金と長期信用銀行の果たした役割が典型的である。
中小企業支援、住宅建設促進、輸出振興などを目的に設立された各種専門金融機関も国内貯蓄動員にそれぞれ貢献したと思う。
アメリカの援助資金が貴重な役割を果たしたこと、とりわけ国際収支対策という面では不可欠なものであったことは事実であるが、
復興期の全体としての資金需要に照らして考えれば、援助資金は補完的なものに過ぎず、
量的にも質的にも主役を演じたのは国内貯蓄である。
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1960年6月、当時の岸信介内閣のもとで「貿易為替自由化計画大綱」が発表され、
これをもとに積極的な貿易自由化への努力が始まった。
計画では、60年4月時点でおよそ40%であった自由化率を、
3年間で80%まで引き揚げることを目標としていたが、
その後IMFの自由化促進の勧告もあって、遅くとも62年9月までに自由化率90%を目指すことになった。
- 柏木雄介の証言 戦後日本の国際金融史/有斐閣
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