ニーチェの「アンチクリスト」にどういうことが書いているのか興味があって借りてきた。
題名だけを見ると、キリストを否定しているかのように思えるが、
どちらかというと、キリストは正しいし素晴らしいが、彼のイメージを間違って伝えるキリスト教に対して反発をしている
本のように見える。
時代的にはここでいうキリスト教はカトリックを指す。
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いかなる形をとるにせよ、権力への意思が衰えれば、そのたびごとに生理的な退化、デカダンスが見られる。
デカダンスの神の性格は、男性的な徳や衝動を切り取られてしまえば、今や、必然的に、
生理的な退嬰者の神、弱者の神となる。
弱者たちは自ら弱者とは名乗らない。
「善人」と自称する。
善き神、悪しき神という二元論的フィクションが、歴史のいかなる瞬間に初めて出現するものであるか、
これ以上示唆するまでもなく、読者にはお分かりであろう。
征服された民族は、自分の神を「善それ自体」 にまで貶めてしまう本能を持っている。
が、これと全く同じ本能によって、征服者の神から、彼らはかずかずの長所美点を抹消するのである。
非征服民族は、支配者に対し、支配者の神を悪魔とすることによって、復讐を遂げる。
善き神も、悪魔も、要するにどちらも、デカダンスの産物だ。
キリスト教神学者は「イスラエルの神」からキリスト教の神へ、民族神からすべての善なるものの精髄へと神の概念が展開したのは、一つの進歩であったと述べ立てているが、
われわれはどうして今日、こんなおめでたい見解に甘んじて付き合うことができよう。
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イエスがその首謀者であると思われてきた暴動、あるいはそう誤解されてきたあの暴動が、
ユダヤ教会に対する反乱でなかったとしたら、いったい何を目指して行われた反逆であったのか、
私にはわけがわからない。
この場合、「教会」という言葉は、今日われわれが解している意味に厳密に解してのことである。
それは「善にして正しき者」に対する反乱であった。
「イスラエルの聖者」に対する反乱、この社会の僧職政治に対する反乱であった。
社会の腐敗に対してではなく、階級、特権、秩序、形式に対する反乱であった。
それは「身分の高い人間」に対する不信であった。
僧侶や神学者的なもののいっさいに対して発せられた否であった。
ここまで
つまり、イエスは既存のユダヤ教に対する異端であったわけで、
ユダヤ教の僧侶の政治に対して反対をして、殺された。
それなのにキリスト教はイエスの考えを無視あるいは歪曲、曲解して僧侶政治を残した。
そういうことを言いたいのではないだろうか。
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神は退屈しているのである。
退屈には神々さえも勝てない。
で、彼は何を始めるか?
人間を発明するのである。
人間は退屈しのぎになる。
だが、見よ、人間もまた退屈してくるのである。
退屈とは、楽園そのものが持っているたった一つの悩みだが、これに対する神の哀れみの念は果てしない。
神はさっそく他の動物達をお創りになった。
神の最初の失敗だ。
人間は、動物たちが退屈しのぎになるとは、思わなかったからである。
人間は動物を支配してしまった。
自ら「動物」であろうとさえしなかった。
そこで、神は、女をお創りになったのである。
果たせるかな、いまや退屈は終わりを告げた。
が、同時に、さらにほかのことも終わりを告げた!
女は、神の第二の失敗であった。
ーー中略ーー
女によってはじめて、人間は知恵の木の味を覚えたのである。
で、どうなったか?
恐るべき恐怖心が老いたる神に襲いかかったのである。
人間そのものが、神の最大の失敗となったのだ。
神はライバルを創ってしまったわけである。
科学によって、人間は神と対等になる。
人間が科学的になれば、僧侶と神々はおしまいだ!
神の得た教訓、科学は禁断そのものである。
禁止されるのはもっぱら科学である。
科学は最初の罪であり、あらゆる罪の萌芽であり、原罪である。
もっぱらこのことだけが教訓である。
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ニーチェ全集 第四巻(第二期)
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