著者は、二・二六事件のときの岡田内閣の首相秘書官、
終戦時の鈴木内閣の内閣書記官長、
戦後は国会議員になった人で
著者の目からみた二・二六事件と終戦の顛末を描いている
かなり歴史的にも(おそらく)資料価値の高いものとなっている。
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二・二六事件の岡田首相の話の抜粋
ずっとあとになって、友人の土肥竹二郎君から聞いた話だが土肥君の息子は日支事変の時、中尉でセンチにいたが、
たまたま、二・二六事件の話が出たとき、部下の兵隊の一人が
「私は二・二六事件に参加したが、総理が生きていることは知っていたが、
いまさら殺すべきではないと思ったので、上官には報告しなかった」
といっていたそうである。
夜になって、まったく巡察兵も来なくなった。
私はうとうととしたが、ときどきいびきをかいたらしい。
そのときは、女中たちは、自分たちのつくりいびきで必死にごまかしたという話だ。
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本来、「国体」というのは、日本民族が、天皇を中心として結合して日本国を形成し、
天皇に対する深い尊敬と信頼の念によって、天皇を最高、最終の心のよりどころとしているという国柄をいうものと私は理解している。
天皇と国民との関係は、権力服従と言ったような形式的なものよりも、
もっとおおらかな精神的な仁慈と尊敬、育成と信頼の関係を中心とするものであったと信ずる。
明治憲法制定にあたって、この国柄を法律的に構成する上において、天皇を統治権の主体と規定した。
そこで、天皇と国民の間には法律的形式的に権力服従の関係が形成されたが、
国民の心持ちの上では、やはり、それを超越する精神的ないったい関係として体得されていたのである。
すなわち、国民より天皇に対する尊敬と信頼に対して、天皇より国民に対する無私の慈悲があり、
天皇は、国民の心を持って心とせられ、国民は、天皇の大御心に帰一するという、
相互信頼による渾然たる一体の関係が成立し、この間にはなんら対立する関係は存在しない。
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御聖断のとき
参列の閣僚は直ちに、他の閣僚の待機する首相官邸に帰り、閣議が再開された。
まず東郷外相より、御前会議の状況を詳細説明し、御聖断の趣旨を述べた。
閣議は、一同意義なく最高戦争指導会議の議決と同一文言の閣議書類に花押して、閣議決定とした。
もちろん阿南陸相も躊躇なく花押された。
時に午前六時である。
この形式を踏んだのは、国会意思は、御聖断によるものでなく、御聖断の趣旨を体して、
内閣各大臣が自己の自主的意思によって閣議の決定をなすことによって決定されるという責任内閣制度の原則に従ったものである。
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機関銃下の首相官邸 迫水久常
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