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セブン・シスターズ 上巻 不死身の国際石油資本 アンソニーサンプソン

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セブン・シスターズ―不死身の国際石油資本 (上) (講談社文庫)/講談社
¥399
Amazon.co.jp
この本は、百田尚樹さんの「海賊と呼ばれた男」の参考文献に載っていた本
石油の歴史」「石油の世紀」とは異なり、
完全に石油企業に話の照準を合わせている。
各オイルメジャーの歴史については「石油の世紀」にまとめたので、そちらを
上巻はOPEC結成の前まで

第一次世界大戦後、アメリカもヨーロッパも、慌ただしく新たな石油獲得戦争に突入した。
これとともに、持てる国と持たざる国との間に新しい反目感情が生まれた。
イギリスとフランスは自国の石油供給源を中東に確立すべく、
他国のことなど顧みずに全力を傾けた。
両国にとって中東はアメリカのテキサス州のようなものだというわけだ。
両国はアメリカを中東地域に一步も入れさせまいとした。
というのもアメリカはとにかく自前の石油資源を持っていたからだが、
これに対してアメリカは
「国外の石油資源から締め出しを食いながら、
減少するばかりの自国石油資源の中から世界に石油を供給するというのは、
全く筋が通らない」と反論した。

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1919年のことで、ベネズエラのシェルで広報関係と同社株式の外交販売を担当していた
エドワード・エドガーという准男爵が歴史的な大ヘマをやらかしてしまったのである。
彼はアメリカが国内の石油資源を無謀にも浪費してしまったと非難する一方、
イギリスは難攻不落であると次のように自慢してみせた。
アメリカ以外で発見されている油田は、すべてイギリスの手に握られているか、
さもなくばイギリス人の経営下にあるか、イギリス資本の支配下にある。
我々は自分たちの手の中に、世界の石油供給の将来をがっちりと握っている

この准男爵の軽はずみな自慢話は、その後アメリカ人たちの間でしばしば引用され、
エクソンが国外に大きく踏み出す刺激剤となった。

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試掘者たちは先を争って石油を掘り出したので、
油田の圧力と埋蔵量は急速にしぼんでしまった。
生産抑制の問題は、アメリカでは「先に採った者が勝ち」というルールがあったために、
よけいにむずかしくなった。
このルールによって、石油は法律上、野生動物と同等に扱われ、
だれでも先にとった者が所有していいということになった。
このため価格はバーレル10セントにまで下落、
ガソリンスタンドはチキンを景品にしたりして客を釣ろうとやっきになった。


ここまで
これを契機に「価格調整」「生産抑制」の考えが生まれ始める。

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ティーグル(エクソンのトップ)の足元を切り崩すことになったのは、ヒトラーだった。
ティーグルは世界に張り巡らした協定網の一環として、既に1926年に、
ドイツの大手総合化学会社、I・G・ファルベンとの間に、
特許と調査研究の相互交換協定を結んでいた。
その当時、この競艇は大きな意味があり、先見性に富むものだと見られていた。
ティーグルは、のちに合成ゴムの開発につながった石炭から石油を抽出する技術だど、
ファルベンの技術力に強い感銘を受けていたし、一方、ファルベン側は、
エクソンとは競争するより協調するほうがいいと考えていた。
この間の事情をエクソンは「ファルベンは石油事業に手を付けず、
われわれは化学分野には出て行かないつもりだ」と述べている。

ヒトラーが権力の座について後、この協定に基づいて
エクソンの持つ四エチル鉛の特許がドイツ側に渡された。
これはガソリンの燃焼を平均化するアンチノック剤で、
100オクタン価の航空燃料用に不可欠のものだった。
エクソンは、これと引き換えにドイツ側が合成ゴムを開発してくれるものと期待し、
アメリカでの研究を手控えた。

ドイツがヨーロッパでの侵略を開始した後も、エクソンは最高機密情報の交換を続行した。
こうした両者の協調に何か特有の不吉な影があったわけではない。
当時、新しく独禁部門の責任者になって、意欲に燃えていたサーマン・アーノルド
の言葉を借りれば、「こうした人たちは、戦争はしょせん一過性のもので、
ビジネスこそ永遠のものだと見ようとしていた
」わけである。
しかし、ティーグルはこれがどんな政治的結果を引き起こすことになるか、
相変わらず全く気づかずにいたのである。

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1938年、メキシコ政府は石油会社を国有化した。
だが、国営石油会社には専門家も技術者も不足したため、
軌道に乗らず、最終的にメキシコ政府は
国有化の補償費1億3000万ドルを払わざるをえなくなった。

この警告を最も真剣に受け止めたのがシェルだった。
シェルはイーグルが国有化されたあと、現地人を経営幹部に登用する
画期的な計画を積極的に推し進めるようになった。

しかし、他の石油会社は、この点についてあまり心配せず、
ましてやメキシコの国有化が第一号として連鎖反応を起こし、
国有化の火の手がベネズエラから中東へと拡大、
最後にはすべての産油国が石油会社に対抗して団結することになる、
などと予見したものは、オイルメンの中にはほとんどいなかった。

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イランのモサデク首相を引きずり落とすクーデターをCIAは画策したが、
この計画をイギリスが承認した。
当時の外相アンソニー・イーデンは承認する気はなかったが、
当時1953年4月彼は病気療養中で、
外相代理をつとめてたチャーチル(当時首相)が承認した。


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当時の中東の各国の合弁会社に対するオイルメジャーの出資比率



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日本もまた、メジャー各社への依存から脱し、中東で自ら直接石油開発に乗り出そうと決意し、
1957年、サウジアラビア、クウェート両国政府と、
中立地帯の沖合で石油開発をする協定を結んだ。
日本側の協定は寛大な内容であって、従来の利益折半ではなく、
両国政府に利益の57%を認めるという条件であった。
日本側は資本金わずか1000万ドルの小さな会社を設立したが、
その名称を日本アラブ石油会社とせず、単に”アラビア石油会社”とした点は
抜け目がなかった。

競争相手の大手石油会社はタカをくくっていたが、
同社はすぐにアラビアから日本へ石油輸出を開始し、
市場確保の面で日本政府の援助もあって、大きな利益を上げ始めた。
1974年現在で、同社の供給量は日本の総需要の約6.5%を占めるに至った。
このような半ば地球の裏側における共同事業が成功した結果、日本経済全体が遠い異国から来る石油に依存しているのだという長年の窮乏感は大いに和らげられ、
その後まもなくアラブ諸国に自動車やカセット、カメラ類が氾濫するに及んで、
アラブにおける日本の存在はいっそう強固なものになった。


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