- 正しい戦争と不正な戦争/風行社
Image may be NSFW.
Clik here to view. - ¥4,200
- Amazon.co.jp
この本は、戦争を始める正当性
戦争内での行為の正当性
この2つを明確に区別し、定義づけていた。
==============
「恋愛と戦争では手段を選ばない」
要するに、何でもありなのである。
つまり恋愛ではどんな策略や嘘も許され、戦争ではいかなる暴力も許される。
われわれは称賛することもできなければ非難もできない。
結局何も言えない(というわけだ)。
ところが実際にはわれわれは、沈黙したためしなどほとんどない。
恋愛と戦争に関して用いられる言語がかくも道徳的な意味にみちあふれているのは、
それが幾世紀にもわたる議論を経て発展してきたからこそなのである。
恋愛については、信義、献身、貞節、恥、不貞、誘惑、裏切りが挙げられる。
戦争については、侵略、防衛、宥和、虐待、残酷さ、残虐行為、大量虐殺。
これらの言葉はすべて価値判断を伴っている。
そもそも価値判断は、恋愛や戦争と同じく人間のごく当然の行為である。
===============
戦時中の言説は偽善だらけである。
そのような時局では正しいと思われることが極めて重要だからである。
これは、道徳が危機に瀕していることを意味するだけではない。
そもそも偽善者はそれを自覚していないことすらあろう。
より重要なのは、偽善者の行為が偽善者ならざる他の人々によって判断され、
その判断が偽善者に向けられる態度方針に影響するであろうということである。
さもなければ、偽善には何の益もないことになろう。
まさに、誰も真理を語らない世界で嘘をつくことに何の益もないのと同じである。
偽善者は、われわれの道徳感につけこんでいる。
したがって、われわれは偽善者の主張を真摯に受け止めた上で、
そのような主張が道徳的リアリズムに則っているかどうか
吟味してみる以外にないように私には思われる。
=================
戦争はつねに二度、価値判断にさらされるのである。
一度目は、戦うにあたって国家が有する理由に関して。
二度目は、国家が用いる手段に関して。
第一の種類の判断は、その性質において形容詞的である。
すなわち、われわれは特定の戦争が正しい、あるいは不正であると語る。
第二のものは副詞的である。
すなわち、われわれはその戦争は正しく、あるいは不正に戦われていると語るのである。
中世の著述家たちは、その違いを前置詞の問題にしており、
ユス・アド・ベルム(戦争への正義)を
ユス・イン・ベロ(戦争における正義)から区別していた。
==================
いくつかの戦争は地獄ではないので、そこから始めるのが最善であろう。
第一のもっとも明らかな例は、若武者たちの競技的な戦い、
舞台上に審判のいない大規模な武芸大会である。
そうした例は、アフリカや古代ギリシア、日本、封建時代のヨーロッパに見出すことができる。
これが、子供だけでなく大人のロマンチストの想像力をもしばしば虜にする
「武器を手にした競争」である。
====================
侵略者に屈することが戦争を避ける唯一の道であると示唆する宥和論である。
国内社会においても、たとえば拒否もしくは抵抗のコストが耐えられないほど大きいとき、
われわれはときに宥和を選び、誘拐犯や恐喝犯と交渉する。
しかし、そうした場合、われわれは罪悪感を覚える。
それは我々が抑止という、共同体の抱える
より大きな目的に貢献できなかったからだけではなく、
もっと直接的には、われわれが強制と不正義に屈従したからでもある。
われわれは譲歩したものが金銭だけだったとしても罪悪感を覚えるのに、
国際社会では、それよりもはるかに重要な価値を進んで差し出さないかぎり、
宥和はありえないのである。
しかし、戦争のコストは、
そうした降伏支持論がしばしばとても強く主張されうるほどのものである。
==================
毛沢東は1928年4月井岡山にて、軍規として「八項注意」を発表した。
一、言葉遣いは穏やかに
二、買い物は公正に
三、借りたものは返す
四、壊したものは弁償する
五、人を殴ったり罵ったりしない
六、農作物を荒らさない
七、婦人をからかわない
八、捕虜をいじめない
ここまで
今を見れば、何一つ守ってないですね(7はわからないけど)
===================
日本は(いくつかの)権利を剥奪され、
ヒロシマの破壊が実際上戦争の苦しみを短縮させるか、
または少なくともそう期待できたかぎりは、
彼らはヒロシマについて不平を言うことは許されないのだ。
しかし、仮に日本が原子爆弾をアメリカの都市の上空で爆発させて何万もの民間人を殺害し、
それによって戦争の苦しみを短縮させたのならば、その行為は明らかに、
トルーマンが列挙している犯罪に追加されるもう一つの犯罪となったであろう。
しかし、このように区別することは、ある判決を日本の指導者だけでなく
広島の一般市民に対しても言い渡しながら、同様の判決が、
たとえばサンフランシスコやデンバーの人々に対してあてはまらないと主張してはじめて、
納得できるものとなる。
以前に述べたように、このようなやり方を養護しうるいかなる方法も私には見つけられない。
ヒロシマの人々が彼らの諸権利を失う何ほどのことをしたのか。
彼らの払った税金はパール・ハーバーの攻撃で使用された船舶や航空機のために使われただろう。
戦果をあげてくれるよう祈願しながら自分たちの息子を海軍や航空隊へ送っただろう。
自国がアメリカによる差し迫った脅威を目前にしながら大勝利を収めた
と聞かされたときにその出来事を祝福しただろう。
ここにはこれらの人々を直接攻撃に処すべき理由はまったくどこにもない。
==============
ジョージ・ケナンは最近、道徳的回答と言わざるを得ないものを示した。
何らかの核攻撃がこの国にしかけられ、数百万の人々が死傷したと仮定してみよう。
さらに、われわれを攻撃した国の中心街に向けて報復する能力がわれわれにあると仮定してみよう。
あなたは報復したいか。
私はしたくない。
・・・核攻撃に際して目には目を要求する人物に、私は共感しない。
==============
1968年3月16日、アメリカ陸軍カリー中尉率いる部隊が、
南ヴェトナム・クワンガイ省ソンミ村に進撃し、無抵抗の村民504人を虐殺した事件
軍上層部の隠蔽工作によってこの事件は当初ゲリラ部隊に対する戦いとして報告されたが、
翌年末からアメリカの主要新聞にその実態が報道され始め、
世界的なヴェトナム反戦運動を巻き起こす契機となった。