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石垣島唐人墓事件 琉球の苦悩 田島信洋

石垣島唐人墓事件―琉球の苦悩/同時代社
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¥3,150
Amazon.co.jp
日本人が行けない日本領土 山本皓一
の本で参照されていて、事件をもう少し詳しく知ろうと思って借りました。
が、かなり退屈な本でした。

前述の本で充分です


<ロバートバウン号事件>
1852年、石垣島の唐人墓の由来となる事件

中国の厦門(アモイ)から410人の苦力(中国人奴隷)を乗せて
アメリカ西海岸に向かっていた米商船ロバートバウン号が石垣島近海で遭難した際、
苦力たちが反乱を起こし、船長など6人を殺害して石垣島に逃げ込んだ。
奴隷たちが上陸した石垣島に米英軍艦は大砲を撃ちこみ、
上陸した米海軍は苦力の捕獲作戦を開始。
石垣島民は捕獲と殺戮から逃れた苦力たちを匿い、1年7ヶ月にわたって世話をする。
だが飢饉と風土病で次々と死亡し、
最終的に中国に無事送還された苦力は172人に減っていた。
死亡した200余名の亡骸は島のあちこちに点在していたが、
1971年に一箇所にまとめられて「唐人墓」が建立され、
現在では石垣観光の目玉となっている。

この事件については、元高校教師で郷土史家の田嶋信洋氏の
「石垣島唐人墓事件」に詳しいが、ロバートバウン号事件の年には、
はしかの流行により八重山全体で1843人が死亡している。
それ以前には津波や干ばつ、疫病などで八重山の人口は1万3283人まで激減したという。
さらに1902年まで続いていた人頭税の重圧もあり、
口減らしのために生まれてきた赤ん坊を間引きする秘話が
八重山地方では今も語り継がれている。

そんな状況の中で島民たちは数百人の苦力たちの食事や宿舎の世話をし、
時には医師の手配から薬までの差し入れもあったという。
飢餓や疫病に苦しみ死んだ島民で、薬らしい薬を口にしたものが何人いたであろうか。
結局、琉球王国が苦力たちの生活費などをすべて負担し、
生き残った172人を送還したのである。
島民よりも宗主国の清(同時に当時の琉球王国は薩摩藩の支配も受けていた)からの
「招かれざる客」の面倒を見なければならなかった小国琉球の悲哀と苦悩を物語っている。

しかし、それにしても大国である米英の砲撃に屈することなく、
騙されて米国に連れだされようとした中国人奴隷を保護し、
交渉を積み重ねて本国に帰還させた琉球王の行動は驚嘆に値する。
この事実は、もっと広く世に知られてもいいのではないだろうか。

<島民の暮らし>
はたしてリリー号やサラトガ号に差し出した鶏や牛などを口にする機会があったのだろうか。
ーー中略ーー
ロバートバウン号事件よりおよそ80年前、明和8年(1771)、
旧石垣市にあたる各村の人口が7304人、旧大浜町のそれが9957人である。
竹富町と与那国町にあたる各村の人口が1万1547人で、
八重山全体としては2万8808人である。
ーー中略ーー
その八重山の人口が1851年、ロバートバウン号事件の前年にはなんと
1万3283人にまで急減してしまっていた。

いうまでもなく、明和8年4月24日朝八時頃八重山地方を襲った大津波がその要因であった。
この津波はギネス級の津波で、記録によると、津波の高さは最大28丈(約80m)に達し、
一挙に9313人の生命を奪っている。
しかもこの津波が奪ったのは人命だけではない。
流出家屋2123戸、首里王府への貢納米822石余が馬艦船に積んだまま流失、
蔵元にあった穀物224石、米約1176石・・・・その他被害は甚大なものであった。
ーー中略ーー
流失した田畑は計り知れず、島民は生産基板を完全に奪われたのである。
八重山にはその後疫病が発生し、飢饉が襲った。


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