Quantcast
Channel: 読書は心の栄養
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1745

ニュースの裏には「科学」がいっぱい 中野不二男

$
0
0

ニュースの裏には「科学」がいっぱい (文春文庫)/文藝春秋
¥500
Amazon.co.jp
向井千秋さんが、長い宇宙飛行を終えてエドワーズ空軍基地に帰還した時のことである。
そのニュース番組でスタジオのキャスターが、基地で現地取材している女性レポーターに、
「今回の実験は成功だったんでしょうか」
と聞いた。
するとレポーターは
「はい、私がNASAの関係者におなじ質問をしたところ、そういう質問をするのは、
宇宙開発に対する日本の意識がまだその程度だからだ、といっていました」
と答えた。
だいたいそんなやりとりだった。
だが、これに対してキャスターは一言のコメントもないまま
「はい、ではCMをはさんで、今日のスポーツです」
といい、画面は変わった。
なんだか、見ている方が恥ずかしかった

===============

「若者の科学離れ」
たしかに科学に対する若者の関心はうすいと思う。
小中学校の時には自然科学の世界に目を輝かせていた子供たちが、
高校や大学へと進むにつれて、興味を失っている。
それは認めざるをえない事実のようだ。

一般に言われているのは、高校の授業の進め方や、受験生度に問題があるということだ。
ーー中略ーー
しかし、それだけだろうか。
私は、それはほんの一部にすぎないと思う。
もっとも重要なのは、自然科学の様々な分野、
あるいは科学技術の研究で活躍している人たちの姿が見えないことだと思う。
かれらの多くは、研究の面白さ、楽しさを知っている人たちだ。
自分の食いついたテーマが面白いからこそ、研究を続けているのである。

ならばその面白さを、もっと社会に伝えるべきだ。
いかに自分の研究は面白いか、いかに満足感のある仕事なのか、
そして科学とは何かを、もっと社会に伝えるべきなのだ。
しかし日本の科学者は、あまり顔を出そうとしない。
もっと出てきてもいいはずなのに、、謙虚なのか出不精なのか、本当に出てこない。

ーー中略ーー
以前、ある出版社の編集者と、学者の文章について話していた時、かれがこんなことを言った。
「とにかく細かい上に、一般の人にはさして重要ではない部分に、やたらとこだわる。
多少は表現がオーバーでも、わかりやすい喩えを使ってくれるとありがたいのだが、
どうしても自分たちの言葉をそのまま使ってしまう。これではどうも・・・・」
その編集者は、ある基礎物理の研究者が書き上げた原稿を前に
「やっぱり、目が一般読者の方にむいていないんですよね。
おなじ分野の研究者からつつかれたり、揚げ足を取られたりしないよう、
ガチガチにかまえて書いているんですよ。
目が自分の世界にしか向いていないんですね」
と頭を抱えていた。

==============

考えてみれば、福井博士をふくめて日本人のノーベル賞受賞は、すべて戦後である。
1901年に第一回目のノーベル賞が行われて以来、
太平洋戦争が始まるまでに40年という長い時間があるのだが、
このあいだには受賞者は1人もいない。
なぜだろうか。

もちろんここでいうノーベル賞とは、なんだかよくわからない平和賞や文学賞とか、
また30年前におまけのように制定された経済学賞のことではない。
客観的かつ公平な選定と、世界最高の権威として知られる、
物理学賞、化学賞、生理学・医学賞の、いわゆる自然科学三賞だ。
これら三賞を受賞した日本人は、
物理学賞の湯川秀樹、朝永振一郎、江崎玲於奈、
化学賞の福井謙一、
生理学・医学賞の利根川進の計5人である。(2000年時点で)

最初の受賞者はいうまでもなく湯川秀樹で、1949年だった。
ーー中略ーー

ひとつ考えられるのは、”地域”あるいは”国”である。
戦前に、それもノーベル賞制定後の初期の頃に、
自然科学三賞の受賞者をたくさん出しているのは、
ドイツとフランスである。イギリスも多い。
レントゲンやキュリー夫妻、トムソンなど、これら三つの国の受賞者は、
とにかく驚くばかりの数だ。
アメリカの科学者もいるにはいるが、これら三国ほどではない。
ーー中略ーー
ヨーロッパの国々では、基礎研究の水準が高かったということのほかに、
科学者同士横のつながりや情報交換の機会が、そうとう発達していたに違いないのだ。
いうなれば科学者間の情報ネットワークである。
そしてなによりノーベル賞の候補者を選考するとき、このネットワークを行き交う情報は、
かなり注目されていたと思われるのだ。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1745

Trending Articles