- 記録と考証 日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉/岩波書店
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最近、話題になる「棚上げ論」こうした発言がどのように出ているのか、
資料から調べてみたいと思い、この本を借りた。
岩波であることから、日本にいいように歪曲するとは考えられないし、
中国の人が編集に携わっていることから、
中国寄りに書くことはあっても、日本よりに書くことはなかろう
つまり、これを最低ラインの防御線としての資料として見てもいいのではないだろうか
<田中角栄・周恩来第二回首脳会談より>
周総理「(中略)7億の人口であるから、一人当たり国民所得はせいぜい200ドルである。
日本は昨年は一人当たりで国民所得はいくらですか。
(田中総理の説明を聞き)それでは、今世紀の末になっても、
到底、日本のレベルに到達できないと思う。
我々は財政上、先端的な武器は持ち得ない。
また軍事大国には決してなりたくない。
日本がどれだけの自衛力を持つかは日本自身の問題であり、
中国からは、内政干渉はしない。」
田中総理「日本は核兵器を保有しない。
防衛力増強は国民総生産の1%以下に抑える。
軍隊の海外派兵はしないという憲法は守るし、これを改変しない。
侵略は絶対にしない。だから日本に危険はない。
国交正常化の結果、中国が内政に干渉しないこと、
日本国内に革命勢力を培養しないことにつき、確信を持ちたいというのが、
大平と私の考えである。
中国が革命を輸出しないということが私の最大の土産になる。(略)」
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ここまで
中国側の最近の方針はこの周恩来の発言とは異なる。
また、日本側は様々な見方はあるが、
PKO派遣、最近の憲法改正運動がこのときの田中総理の発言に合わない
と中国は考える可能性が高い。
どっちもどっちだが、その状態でいまだに田中総理の当時の発言にしがみつこうという人が
自民党や自民党以外にも多くいるのがおかしなことです。
<田中角栄・周恩来第三回首脳会談より>
田中総理「尖閣諸島についてどう思うか?私のところに、いろいろ言ってくる人がいる」
周総理「尖閣諸島問題については、今回は話したくない。
今、これを話すのは良くない。
石油が出るから、これが問題になった。
石油がでなければ、台湾も米国も問題にしない。
国交正常化後、何ヶ月で大使(館)を交換するか?
大平大臣「できるだけ早く必要な措置を講じていくが、共同声明の中に、
何ヶ月以内にとは書けない。(略)」
田中総理「相互信頼が大事だ。
だから、日本に軍国主義が復活するとか、侵略主義が復活するとか考えないよう願いたい。」
周総理「私は日本の社会党より、ひらけている。
社会党は「非武装」をやかましく言うから、
日本が自衛力をもつのは当然ではないかと言ってやった。」
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ここまで
棚上げを言い出したのは周恩来で決まりだろう。
この本だけを見るなら、大平大臣が「現状でそのままとする、という暗黙の了解」をしている。
矢吹晋の「尖閣問題の核心」のように外交文書に偽造があるのだろうか、
あるとすればこの本を書く段階で中国人の編集者からクレームが来るはずだからだ。
<竹入義勝公明党委員長と周恩来の会談@竹入メモ>
尖閣列島の帰属は、周首相との会談で、どうしても言わざるを得なかった。
「歴史上も文献からしても日本の領土だ」と言うと周首相は笑いながら答えた。
「竹入さん、我々も同じ事を言いますよ。
釣魚島は昔から中国の領土で、我が方も見解を変えるわけにはいかない。」
さらに「この問題を取り上げれば、際限ない。
ぶつかりあうだけで何も出てこない。
棚上げして、後の賢い人達に任せましょう」と強調した。
「あの辺が油が出るというものだから、ごちゃごちゃする。
だから共同開発がいい」ともいう。
「日本の領土だから、共同開発はない」と私は反論した。
気負う私に、周首相は終始にこやか、まともに取り合おうとはしていなかった。
会談記録も二回目の会談でわずかに触れているだけだ。
<西園寺一晃の証言>
この方は北京大学卒業後、朝日新聞入社、現在フリージャーナリストです。
本来邦人の帰国問題は、日本政府が真っ先に取り組まなければならない問題であった。
しかし、当時の日本政府の対中政策は、事実上台湾の国民党政権を
中国の唯一合法政府とみなし、新中国政府に対しては認めず、交渉せずというものであった。
日本にとって、法的には中華人民共和国は存在しなかったのである。
この問題を解決したのは民間団体であった。
日本赤十字社、日中友好協会、平和連絡会の三団体は協力して
中国政府、中国赤十字会と接触、交渉し、邦人の帰国問題を実現させた。
帰国第一船「興安丸」が舞鶴港に着いたのは1953年3月であった。
この邦人帰国問題に対する中国政府の全面協力の姿勢は、
対日正常化への第一のシグナルであった。
第二のシグナルは、直接的なものだった。
1955年、中国在ジュネーブ領事館の総領事が同じ駐ジュネーブ日本領事館総領事に対し、
正常化交渉の申し入れを行ったのである。
申し入れはこの年二回行われた。
しかし日本政府はこれを無視した。
第三のシグナルは、日中戦争中に中国の捕虜となった日本兵すべてを釈放するという、
1956年の中国政府と人民検察院の決定である。
その結果、中国に収容されていた一千余名の日本兵は56年8月までに全員釈放された。
この時も日本政府は関与せず、日本赤十字会、日中友好協会、平和連絡会の
三団体が中国側と交渉にあたった。
なお、戦犯の釈放とともに、中国側は中国残留日本婦人の子供同伴の里帰りも許可し、
56年から57年にかけて千五百余人の里帰りが実現した。
第四のシグナルは、周恩来総理自らが呼びかけたものであった。
1956年1月、周恩来は政治協商会議の政治報告の中で、
日本政府に正常化のための話し合いを提案した。
この時も日本政府は、中国からなんの申し入れもないと否定した。
<あの「二百隻の漁船」は一体何だったのか@元中国大使 中江要介>
1978年の春、日中平和友好条約締結に向けて日本国内もその気になりかけたか
と思われた矢先、突如として、日本の固有の領土である尖閣諸島の周辺海域に、
二百隻という中国漁船群が出現したという情報。
4月12日のことである。
その日の私の日記帳には「訳の分からぬ中国、条約はダメか」とある。
ーー中略ーー
21日には「11時総務会(自民党)、13時まで、派閥争い、つまらぬ時間の浪費」・・・
そのころ北京では動きが見られ、わが日本大使館に対し
「当日は気象条件が悪く、中国漁船群は風に流され、
つい尖閣諸島の周辺海域に紛れ込んだもので、再びこのようなことは起きぬだろう」
という中国政府の公式見解。
日記帳には「一件落着とするほかなし」とあり、
漁船群はあっという間に一隻残らず現場から姿を消してしまった。
ーー中略ーー
私の邪推によれば、これを中央が知らぬ筈はなく、中央の意図は、
この事件を引き起こすt事によって、日本側の条約締結への意欲と
尖閣諸島への領有権主張の根強さを試そうとしたのではないか。
<中ソ同盟条約は”名存実亡”と言うが@元中国大使 中江要介>
日本の要求は、日中平和友好条約を締結したいというのであれば、
日本を敵視する中ソ同盟条約をまず破棄すべきである、というものであった。
至極当然ではないか。
中国側は、この簡単明瞭な理屈を素直に認めながら、
中々中ソ同盟条約破棄の手続きを取ろうとしない。
一方において、いわゆる「反覇権条項」の挿入を強く主張して、
その覇権とは他ならぬソ連邦の覇権主義であることを露わにしておきながらである。
このようなダブルスタンダード、二枚舌は許せないという日本の強い反論に対し、
中国側は、とうとう最後に「中ソ同盟条約は今や”名存実亡”である。
名は存しても実は亡くなっている。
それは廃棄に等しく心配に及ばぬ」というのである。
中ソ同盟条約の有効期限も残り僅かなこともあり、1960年代以降の中ソ対立と
中国の反ソ政策を勘案すれば、”名存実亡”と言うのも解らぬではないので、
それを公式記録にとどめておこう、ということに落ち着いた。
しかし、しかし、である。
この論法は、将来某年某月某日、中国が突如として日中平和友好条約の反覇権条項は
今や”名存実亡”であると言い出し、覇権主義に走る余地を残してはいないか。
約束はあっても(名存)、守らなくて好い(実亡)、という手前勝手を是認したわけではない
ことを肝に銘じておく必要がある。