現代中国を語る際に欠かせない鄧小平
彼がいなければ、今も中国は最貧国の一つだったでしょう。
上巻は、彼の幼少期から、最高指導者になるまでです。
この本で知ったが、彼は毛沢東によって二度も失脚している。
2度めの失脚の前、鄧小平は政治研究室を起ち上げ、中国の近代化をどのように果たすか研究している。
そこでは、
①工業20条
②科学院工作報告要項
③全党全国各分野の工作に関する全体要項を論じる
の3つを画策した、ということで毛沢東に批判され、失脚した。
①は社会主義でよくある計画経済を指している
②については、現在に残る中国科学院という中国最高の研究機関の再建を図っている。
文化大革命によって科学が否定され、中国科学院の科学者たちは迫害されたからです。
この再建には胡耀邦が担当することとなる。
彼は後の天安門事件の原因といっていい人です。
胡耀邦もまた文化大革命で迫害され、科学者は胡耀邦の姿に自分を重ね、信頼するようになります。
胡耀邦は科学者たちの生活の改善に務めるようになりました。
しかし、毛沢東は自分のこれまでの行いを完全に否定されたと感じたのだろう。
鄧小平を失脚させ、彼の行おうとしていたことを凍結する。
これによって1976年、「第一次」天安門事件が発生する。
民衆は、せっかく生活が良くなりそうになったのに鄧小平が失脚したことを不満に思い、
各々壁新聞を作って壁に貼ったり、鄧小平の「小平」と「小瓶」が同じ発音であることから、
軒先に小瓶を並べて無言の抗議を行いました。
政府はこれを弾圧したがために、政府への信頼を一層なくしていく。
民衆はこれによって、鄧小平の目指す近代化のみならず、民主化までも望んでいく「芽生え」が生まれる。
第二次天安門事件の結果も、同様に弾圧がゆえにさらなる民主化を民衆が求める結果となっている。
毛沢東が1976年に死ぬとまもなく、鄧小平は復帰し、失脚前の近代化への動きを再開する。
そして、1979年3月30日、有名な4つの基本原則を提示した。
いかなる文書も
①社会主義の道
②プロレタリア独裁
③共産党の指導
④マルクス=レーニン主義と毛沢東思想
に異を唱えてはならない、とし、どこまでを容認できるかの線引をはっきりと打ち出した。
これを超えない範囲での近代化を図ろうとしたのです。
<日中関係>
1972年の田中角栄と毛沢東、周恩来の間で行われた日中共同声明以降、
実のある交流はそれほどなかったが、
鄧小平復帰以後、1978年には日中平和友好条約を取り交わした。
これにより、中国は賠償金を求めない代わりに日本がODAを通じて経済援助を行うことが決められました。
1980年12月、日中関係は両国で最初の合同閣僚会議の開催にこぎつけるまでに発展した。
また海外経済協力基金(OECF)からの優遇条件での長期借款に調印しました。
1979年から2007年までの間に、OECFは中国に対して
他のどの国よりも多い合計2.54兆円の資金を供与した。
日本の製造メーカーが中国の至る所に工場を作った。
そして、日本貿易振興機構(JETRO)が上海に事務所を開設し、
日本企業の中での広いネットワークを活かし、
さまざまなセクターで教育訓練プログラムを欲する中国の要請に応えたいと考える企業を見つけ出し、紹介した。
鄧小平が国政の舵をとっていた歳月において、工業力の工場とインフラ建設を図る中国に対して、
日本以上に支援の手を差し伸べ貢献した国はどこにもなかった。
ここまでの日本の中国に対する好意は、
1974年75年に日本からのの謝罪を受けてくれたこと、
1978年に鄧小平が来日した際の態度が報道されて日本人に好感を与えたためのようです。
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鄧小平 上 エズラ・F・ヴォーゲル
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