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将軍と側用人の政治 大石慎三郎

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側用人という制度を通じて江戸中期の政治を見直そう、という趣旨の本

側用人という仕組みは学校教育では評判のよろしくない徳川綱吉政権下で作られたもの
この本では、徳川綱吉から松平定信までの江戸中期の政治に焦点をあてている。

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徳川綱吉はそれまで家柄に
よって与えられていた地位に、「実力主義」にもとづいて地位を与えようとした。
そのいい例が、下っ端役人であった萩原重秀を勘定奉行にして、財政を一手に取り仕切らせたことにある。

萩原重秀の優れたところは、現代人でもなかなか賛同しない、
アベノミクス第1の矢、積極的金融緩和についてこの時代に既に行っていることにある。

当時の日本は金貨・銀貨による貨幣を使用しており、
紙幣と違って、金銀の産出量に依存していた。
貿易でも金貨銀貨を使用していたこともあり、
拡大する経済に見合った金貨銀貨の鋳造ができなくなってきた。
そこで萩原重秀は、貨幣の金銀含有量を少なくし、鋳造量を増やすことにした。

いわゆる金融緩和だ

綱吉政権の次に政策を取り仕切った新井白石は古い考え(と言っても現代にも相当いるが)の持ち主で、貨幣をそんなに鋳造してはならない、ましてや品質を落とすなどもってのほか、と元に戻しかつ自らの書で萩原重秀を悪く言う。
このために萩原重秀の評価は戦前戦後を通じて評価があまり高くないが、
さすがにアベノミクスの影響もあって、彼の政策は見直されることでしょう。

彼はこの時代にすでに
「本来、お金というのは何でもいいわけで、瓦でもいいのだ」
と発言している。
こうした「通貨の本質」を見ぬいた優れた経済学者でもあったわけです。


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江戸時代の初期には、まだ生活に困って子供を捨てたり、
あるいは気に入らない子供を捨てたりすることがあったし、
人間や牛馬が年老いたり病気になったりすると、まだ息のあるうちに山野に追放して
自然に斃死するのを待つというような風習も残っており、
屍も野ざらしにされたままだった。
幕府は、これらを大いに取り締まろうとする。
この時期には、人間を含めた「生類」、つまり生きとし生けるもの全てを大事にし、
平和な時代を築こうという雰囲気が濃厚
にあった。
日本人の全てが自分の「墓」を持つようになるのは、まさにこの時代以降のことなのである。

ーー中略ーー
この四代家綱から五代綱吉にかけての時期には、戦国時代以来の殺伐とした慣習や人間の心の問題などを整理していって、平和な安定した社会を築くための、広い意味で「生類憐れみの令」と呼べるような一連の政策がどんどん出てきていたのである。
広義の「生類憐れみの令」とは、「もはや戦国時代ではない」社会の仕上げをするためのものだったのである。

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天明の大飢饉において、田沼意次は天明四年閏正月、
関東、陸奥、出羽、信濃など凶作の地域に対して、
米の買いだめや売り惜しみをしないようにという法令を出している。
ーー中略ーー
この時、奥州白河藩12万石の藩主である松平定信は幕府の命令を無視し、
家臣を上方に派遣して米6950俵を買い占めさせ、
また会津藩主松平容頌(かたのぶ)に懇請して米1万俵を白河に取り寄せている。

これは明らかに幕法違反であって、この時白河藩が凶作地帯にありながら餓死者を出さなかったのは、他藩の農民の犠牲の上に成り立ったことなのである。

これは、日本全体のことを考えて政策を進めた田沼意次と、
自分の藩一個の立場から政策を考えた松平定信の違いを鮮やかに示している。

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吉宗が年貢率を引き上げた時には天領で農民一揆が多発し、
それを抑えきれない代官たちが江戸へ逃げ帰ってくる有り様だった。

こうした吉宗の失敗を間近で見ていた田沼意次は、
年貢という「直接税」は一切引き上げないで別の方法を考える。
田沼家の家憲の中でも意次は、財政は思わぬ出費を伴うものだから、
不時の支出のことまで勘案して予算を立てるべきだ、
どんなに困ってもすぐ年貢率を引き上げるなどと考えてはいけないと言っている。
そこで田沼意次は、直接税を上げる代わりに、流通税という「間接税」を取って補うという
発想の転換を行ったのである。


元禄以来、経済規模が大きくなって、社会的な商品流通が全国規模に広がっていた。
ところが、江戸時代の税制はそれまで、商業には税をかけないという考え方が主流だった。
五代綱吉のもとで萩原重秀が酒に50%の流通税をかけたことがあったが、
すぐに新井白石に潰されてしまっている。
田沼時代になって初めて、商人にも一定の税を負担させるという形ができたのである。
とはいえ、個人単位の流通課税は難しいから、田沼は取り扱い商品ごとに流通グループを作らせて、グループごとに課税するという新しい方式を考えだした。

ところが商人たちは、税を納める代わりに反対給付をくれと言い出す。
税を納めたグループに、流通上の独占権をよこせというのが彼らの言い分だった。
こうして、「株仲間」が誕生する。


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