元特攻志願兵で、戦後ヤクザとなり、芸能界入りした安藤昇さんの自伝
安藤組を解散するまでの本
前に読んだ本、男の終い仕度、が私が期待した内容ではなかったので再チャレンジ
戦後間もないころの日本の状況を知ることができてよかった。
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進駐してきたアメリカ兵たちは、図体が大きいだけでなく、栄養がいいから艶々と血色もいい。
清潔な軍服に、ピカピカに磨きあげたGIシューズを履いて、
ガムをくちゃくちゃやりながら陽気な笑顔で歩いている。
そして、連中の腕にぶら下がって歩いているのが、我が大和撫子たちだった。
口紅を塗りたくり、赤いロングスカートに花模様の派手なネッカチーフを頭にかぶっている。
生きるためとはいえ、昨日まで殺し合いをしてきた敵兵にこびを売り、
すれ違う敗残の復員兵を蔑みの目で見やる。
(これが、モンペ姿で日の丸の小旗を振った女なのか?)
オレたちはいったい誰のために戦ってきたというのか。
戦友たちはこんな女たちのために命を落としたのか。
腹が立った。
情けなかった。
戦争に負けるというのは、こういうことなのである。
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国も国民も飢え、世情は依然として混沌としていた。
ついこの間まで、日本の”植民地”と蔑視されてきた外国人たちが、
終戦によって”戦勝国民”になった。
一夜にして立場が逆転したのである。
渋谷や新橋は”戦勝国民”が多く、駅前闇市は摩擦が絶えず、
抗争に発展することも少なくなかった。
有名な松田組による新橋事件は、私が結婚した前年、昭和21年7月のことである。
当時、警察官に諸事が許されたのは警棒だけで、武力的には無力に等しく、
猟銃や拳銃などで武装した”戦勝国民”の集団に抗すべくもなかった。
そこで警察側は、背に腹は代えられないということで、日頃から腐れ縁の
博徒、テキ屋の親分衆に助っ人を依頼するといったことが多かった。
一方、ヤクザにしても、昨日までへつらっていた連中が”戦勝国民”になるや、
特権階級面して我が物顔で闊歩することに対する反発や不満がある。
そこへ警察という”お上”からケンカ要請だ。
撃ち殺そうがたたっ斬ろうがお咎め無しというのだから張り切るのは当然だろう。
ーー中略ーー
”戦勝国民”とヤクザとの抗争事件は、浜松事件、広島事件、渋谷事件、京都、福岡など
全国各地で続発した。
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ヤクザの世界は、いまも昔も力と力の世界だ。
武力、経済力、外交手腕、ハッタリなど、あらゆる”力”を結集して縄張りを守り、
あるいは縄張りを侵食する。
そして、ひとたび抗争が起これば、徹底的に相手の親分の命を狙う。
根が枯れれば枝葉は自然に枯れるからである。
そういう意味では、確たる縄張りを持ち、経済力も安定した親分にとって、
餓狼集団である愚連隊は嫌な存在である。
ヤクザ業界の序列や仁義などくそくらえで、腹が減れば見境なく襲い掛かる。
だから愚連隊は、徹底的に叩き潰すか、懐柔して傘下に組み入れるかの
二者択一しか無いのだ。
逆に、私達愚連隊の立場から言えば、強固な戦闘力と経済力の充実が急務だった。
終戦直後、裏世界の勢力図は、テキ屋、博徒、それに戦勝国民として特権を有し、
突如台頭した韓国人グループに大きく分けられた。
テキ屋は戦後、いち早く闇市を建設し、その膨大な収益により勢力を拡充した。
博徒一家は戦中、軍部右翼と結び国策に協力したため、
軍部右翼の崩壊とともに一時期は運命を共にした。
新興の外国人グループは、全国各地で地元ヤクザと抗争事件を起こしたが、
彼らの団結力と経済力はあなどれぬものがあった。
<玉ころがし><ビンゴ>など大通りに店舗を張ったバクチが、
彼らの手で公然となされ、札束を握り、目を血走らせた日本人がそれらの賭場へ群がった。
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従来、警察と我々の関係は、ハッキリ言えば”親戚づき合い”のような一面もあった。
地区内で刃傷事件や、その他の事件などが発生した場合、
警察は必ず我々のところへ協力を求めてきた。
そんな場合、犯人が自分の組員であれば自発的に出頭させた。
また終戦直後は無警察状態で、”戦勝国民”が横暴を極めた時代、
警察当局からの依頼によって、私たちヤクザは血を流してまでも
”戦勝国民”から市民の安全を守った。
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自伝安藤昇 安藤昇
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