Image may be NSFW. Clik here to view. ![]() 【送料無料】倭国の時代 [ 岡田英弘 ] |
岡田英弘さんのいわゆる岡田史観日本版
この人の歴史館は極めて現実主義的である。
この本は今から40年近く前の本だが、一部違和感はあるものの納得できる。
もちろん、この本は小中学生にはあまりおすすめできない。
彼らにはもう少し神話も含めて夢のある歴史を学んでもいいと思う。
この本は大学生以上は読んでおくといいのではないかと思う。
最近、著者の著作集で日本編が出版されているので、
このような古い本ではなく、最新のデータを元にした本を読んだほうがいいのではないでしょうか。
著者は、天智天皇以前の天皇において、様々な矛盾点を付いている。
そこには全てがウソではないにせよ、中国的歴史観、つまり国内向けの自らの正当性を証明するための作りが入っているという。
著者の分析によると、
1.第1代の神武天皇から第16代の応神天皇までの歴代はすべて架空
2.第17代の仁徳天皇が、古くは初代の天皇とされていた
3.第24代の顕宗天皇と、第27代の継体天皇は、それぞれ新しい王朝の初代である
としている。
40年近く前の本なので、現在は新しい研究結果を踏まえてどう変わっているのか、
今度読んでみたいと思う。
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隋書倭国伝の紀元600年から609年において、日本では
「アメ・タラシヒコ・オオキミ」という称号を持つ男王がいることになっている。
しかし、日本書紀によるとこの時期の倭王は推古天皇です。
これはどちらが確かなのであろうか。
言うまでもない。確かなのは「隋書」のほうである。
なぜかといえば、もし使いを遣わした倭王が女王だったならば、
有名な邪馬台国の女王卑弥呼の故事を知っている中国の史官が、
これをわざわざ男王と書くはずがない。
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大雑把に言って、長江の北、東北三省の地に至るまでの華北一帯で話されている言語がいわゆる「官話(マンダリン)」の系統のものであって、
その中でも代表的なのが北京語であり、
その北京語を元にして人工的に作り上げた標準語が、
大陸では「普通話(プートンホワ)」といい、台湾では「国語(グオユイ)」という言葉である。
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司馬懿が6歳の184年、中国全土にわたって黄巾という宗教秘密結社の叛乱が爆発した。
この大反乱は、都市に集中した貧民が起こした、理想社会の建設運動だったが、
結局は装備も訓練も優秀な政府軍には勝てず、数年後には鎮圧されてしまった。
しかしこの事件は中国の社会に深刻な大打撃を与えたのであって、
食料の生産がストップしたために、中国の総人口は5千万人台から、
一気に600万人足らずに激減した。
およそ想像もつかない惨状であり、華北の平原は、行けども行けども無人の荒野と化したのである。
この痛手から中国が回復するには数世紀を要するのであり、黄巾の乱から百年たっても、
総人口はわずか1600万にしかなっていない。
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「景行天皇紀」の東国の英雄(ヤマトタケル)の原型は実は天武天皇であり、
そのために伊勢・尾張・美濃と関係が深いことがわかる。
そしてヤマトタケルが白鳥とかして飛び去るのは、天武天皇は人ではなく神であったということであって、
これは今の「景行天皇紀」のヤマトタケルの物語が、686年の天武天皇の死のあとで作られたことを示している。
それにもっと面白いことに、「天武天皇紀」によると、この年野5月に天皇が病の床につき、
6月に占うと、草薙の剣の祟りと出たので、直ちに尾張国の熱田社に送ってそこに置いた、
7月に朱鳥元年と改元した、ということである。
そのかいもなく、天武天皇は9月に亡くなるのだが、ヤマトタケルの遺品のはずの草薙の剣が熱田神宮に納められたのが、実は天武天皇の死の直前だったということは、それが天武天皇の遺品でもあることを意味する。
またヤマトタケルが白鳥と化して飛び去るのに対して、天武天皇が朱鳥改元の直後に死去するのとは、いかにも関連がありそうである。
はっきり言ってしまおう。
ヤマトタケルとは、古くから語り伝えられた伝説の主人公なんかではなく、
天武天皇の影として、7世紀末になって新たに創作された人物なのである。
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「古事記」の上巻に載っている神話を、これに対応する「日本書紀」の「神代上・下」の両巻の内容と比較して見ると、大部分は文章がよく似ているが、
それは「日本書紀」が「古事記」を写したのではなく、
逆に「古事記」が「日本書紀」から材料を採って書きなおしたのである。
「日本書紀」の「神代上・下」の大きな特徴は、本文の物語が一段落するごとに、多数の異伝を「一書に曰く」として注記していることである。
もし「日本書紀」より「古事記」という勅撰の書が出来ていたのならば、当然「古事記」も「一書」の一つとして、「日本書紀」に引用されていなければならない。
ところが「日本書紀」の「一書」のどれ一つとして、「古事記」とぴったり一致する内容のものがない。
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多氏は代々、新羅系の帰化人の秦氏と姻戚であり、神羅派に属していた。
だから「古事記」も神羅に好意的で、
「日本書紀」に多く載っている神羅に都合の悪い記事はすべて落とし、
代わりに神羅国王の子というアメノヒボコの来朝を大々的にかき立てたり、
秦氏の祀る神々の系譜を載せたりしている。
要するに「古事記」はその成立の事情から言っても、9世紀という年代の新しさから言っても、
7世紀以前の日本古代史の資料として使えるようなシロモノではない。
われわれが利用できるのは、日本側では「日本書紀」だけなのである。
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「朝貢」の定義の間違いの第二は、それが中国という国家と、外国または外部族との間に行われるものだ、と考えていることである。
しかし朝貢使が訪問して敬意を表す対象は、決して中国という国家ではなく、
個人としての皇帝なのである。
乾隆帝がマカートニーの来訪を喜んだのも、臣民に対してメンツが立ったからであった。
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朝会がすんで夜が明けると、交易場の外に集まって待っていた「夷」人たちが、
日の出とともに入場するが、それには持参した物品の10分の1を入場料として、
入り口の「租」に供えなければならない。
これが「租」であり、また10分の1を「脱(ぬ)」き取るから、「税」とも呼ばれる。
これが租税の起源である。
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食糧の生産の効率が一番いいのが農業であることは異論があるまいが、
しかしその農業で生計を立てる農民でさえ、自然な状態では、
自分たちの食い扶持以上の食糧を作るというような、余計な骨折りをするわけもない。
ーー中略ーー
この事情は、先史時代の朝鮮半島や日本列島の、焼き畑耕作を生業とした村々でも同じだったに違いない。
そうした静かな山の村の人々が、自分たちが消費する分よりも多くのアワなりヒエなりを、
張り切って作り出すように成るためには、少なくとも毎年、定期によそからやってくる人々、
つまり旅の行商人の来訪が必要である。
それによって村の産物に対する安定した需要が生じるし、また行商人が物々交換のために村に持ち込む、遠い国の便利な製品や珍しい産物が、さらに村人の生産意欲をそそる。
言い換えれば、市場経済が浸透してきて、はじめて農村に余分の食糧が出現し、
食料生産以外のことに従事する人間の生存が可能になる。
これが国家へ、政治へ、歴史への第一歩であった。
朝鮮・日本でこの刺激剤の役割を果たしたのは、言うまでもなく中国商人であり、
彼らが大挙してこの地方に進出してきたのは、紀元前3世紀に
燕国が朝鮮半島の北部・中部に前進基地を設置して、
半島を縦断して日本列島に向かう貿易ルートを手中に握った時からであることは疑いない。