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マオ 誰も知らなかった毛沢東 下 ユン・チアン

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マオ―誰も知らなかった毛沢東 下/講談社
¥2,310
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上巻のつづき
下巻はおよそ、国民党を中国本土から台湾に追い出した後以降、毛沢東が死ぬまでです。

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中国共産党は息のかかった人間を米国共産党内に送り込んでおり、
ソ連が入手できない情報にもアクセスできる強力な情報網を持っていた。
米国共産党書記長アール・ブラウダーは昔からの中国通で、
ひそかに「中国局」を設けて毛沢東と緊密な関係を保っていた。


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毛沢東は子孫を残すことに興味がなかった。
1918年の時点ですでに、毛沢東は
「人間は歴史に対して責任を負う、という人もいる。
吾はそうは思わない
吾人は後世に遺すために功業を立てるものではない」
と書いている。

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最も裕福な国々でさえ、対外援助額がGNPの0.5%を超えた例はほとんどない。
今世紀初頭のアメリカ合衆国の対外援助額は、GNPの0.01%よりはるかに少なかった。
毛沢東時代、中国の対外援助額はGNPの6.92%(1973年)という
信じがたい数字だった。
世界に例を見ない数字である。

中国の農民は世界でも最も貧しい部類に入る、毛沢東はそのことを十分承知していた。
自分の支配下で農民たちが飢饉に苦しんでいることも、十分承知していた。
超大国計画に着手する直前の1953年4月21日、毛沢東は報告書で、
「農業世帯の約10%が春と夏に食糧不足に陥るものとみられる
食糧が全くなくなる可能性もある」と指摘し、
こうしたことは「毎年」起こっている、と書いてある。
このような乏しい食糧事情で、どうやって毛沢東の途方も無い野望を満たそうというのか。
外国に対して食糧の大盤振る舞いを続ければいずれ大量の餓死者が出ることは、
難しい計算をしなくてもわかっていたはずだ。

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1956年5圧末、毛沢東は広州を発って武漢へ戻り、中国最大の長江で泳ぐと言い出した。
反対勢力と戦う決意を示し、闘いぬくためのスタミナがあることを見せるのが目的だった。
武漢で長江は川幅を大きく広げる。
側近の多くは毛沢東に水泳を思いとどまらせようとした。
ーー中略ーー
毛沢東が実際に泳いだときは、特別の訓練を受けた警護兵が何十人も水に入って
毛沢東の周囲に非常線を張り、三艘の船がその外側を固めた。

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1957年の共産主義諸国サミットにおける毛沢東の演説

ここで、考えてみましょう。
戦争が起こったら、何人の人間が死ぬか。
世界には27億の人間がおります。
その三分の一はいなくなってもいい。
あるいは、もう少し多めに考えて、半分を失ってもいい・・・
つまりです、極端な状況で言うならば、半数は死に、半数は残る、
しかし帝国主義は完全に打ち倒されて世界全体が社会主義になるわけです。
ーー中略ーー
貧困は悪いといいますが、実際には貧困は良いものであります。
貧しければ貧しいほど、人民は革命を起こそうとする。

誰も彼もが裕福になった光景など、想像に堪えない・・・
カロリーの摂り過ぎで、人の頭が二つになり足が四本になってしまうでしょう。

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毛沢東は1958年の生産目標を1070万トンに設定した。
この数字が生まれた経緯は、経済に対する毛沢東の取り組み方が
いかに大雑把だったかを物語っている。
6月19日、中南海でプールサイドに腰を下ろしていた時、
毛沢東は冶金部長に「去年の粗鋼生産量は530万トンだったな。
今年は二倍作れるか?」と尋ねた。
イエスマンの冶金部長は、「だいじょうぶです!」と答えた。それだけである。
ーー中略ーー
12月31日までに1070万トンの数字は達成できたものの、
「良質な鉄は4割だけだ」と、毛沢東自身さえ最高幹部に認めている。
300万トン以上がまったく使いものにならない鉄だった。

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中国全土を襲った大飢饉は1958年に始まり、1961年まで続いた。
最悪だった1960年には、政府の公式統計でも、
国民の平均カロリー摂取量は一日あたり1534.8キロカロリーまで落ち込んでいる。
きわめて毛沢東政権寄りの作家ハン・スーインでさえ、都市部の主婦の
一日あたりカロリー摂取量は1960年には最大で1200キロカロリーだった、と書いている。
アウシュビッツ強制労働収容所の囚人は、一日あたり1300ないし1700キロカロリー
の食事を与えられていた。
それでも、一日に約11時間の重労働をさせられる囚人の場合、
配給以外の食糧を手に入れられないものは大半が数ヶ月以内に死亡している。
大飢饉の間、人肉を食べた者もいた。
毛沢東の死後に安徽省鳳陽県に関しておこなわれた研究によると、
1960年の春だけで63件の人肉食が記録されている。
ーー中略ーー
住民の3分の1が死亡した甘粛省のある県でも、人肉食が横行した。
ーー中略ーー
これは20世紀最悪の飢饉、人類史上最悪の飢饉だった。
毛沢東は計算ずくで何千万という人々を餓死や過労死へ追いやったのである。
飢饉が最悪だった1958年から1959年にかけての二年間、
穀物だけでも700万トン近くが輸出されている。

これだけあれば、3800万人に一日あたり840キロカロリー以上を与えることができる。

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政府もそうした疑問の重さを感じており、周恩来は上層部に対して、
中国は非常に安いコストで原爆を製造できた。
わずか数十億元を使っただけだった、と話した。
実際には、中国の原爆には41億米ドル(1957年当時の価格)
が投下されたと推定されている。
これだけのドルがあれば、すべての中国人民に二年間にわたって
一日あたり300キロカロリーを余分に供給するだけの小麦を買うことができる。
大飢饉で餓死した3800万近い人民全員の命を救うのに十分な量だ。
毛沢東の原子爆弾は、アメリカが広島と長崎に落とした二個の原爆が奪った人命の
100倍に相当する中国人民の生命を奪ったわけである。

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毛沢東は1953年に超大国計画に着手し、安全を度外視して目標達成を急がせ、
核開発の分野で総毛立つような危険を兵器で冒した。
なかでも無謀というべきは、1966年10月27日、核弾頭を装着したミサイルを
中国西北の大都市上空を通過させて800キロ先の地点に着弾させる実験だった。
まともな精度を備えているとは言いがたいミサイルを飛ばし、
飛行経路にあたる地域の人命を危険にさらしてこのような実験を行ったのは、
地球上で中国ただ一国である。
実験の三日前、毛沢東は責任者にゴーサインを出し、失敗しても構わないと伝えた。
実験に関わった人間のほとんど全員が大惨事を予想した。
ーー中略ーー
結果的に実験は成功し、「精神的原爆が物質的原爆を起爆する」というスローガン
のもと、実験の成功は毛沢東「思想」の偉大なる勝利である、と宣伝された。
実際には、成功は偶然の産物だった。
このあと何度か行われた同型ミサイルの実験は発射直後からミサイルが
でたらめに旋回して失敗に終わっている。

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ニクソン訪中からまもない1972年5月なかごろ、周恩来に膀胱がんがみつかった。
ーー中略ーー
5月31日、毛沢東の裁定が下された。
「第一、これは秘密とし、総理や総理の妻には知らせない。
第二、検査はしない。第三、手術はしない・・・」
ーー中略ーー
毛沢東が周恩来の入院加療を認めなかった理由の一つは、ニクソン訪中の後
門前に列を成して待つようになった諸外国からの賓客をさばくために
周恩来を24時間休みなく使いたかったからだ。
ーー中略ーー
毛沢東の前では周恩来は「二流の人物だった」と、キッシンジャーが書いている。
日本の田中首相はもっと辛辣だ。
1972年9月、北京を訪問して中国との国交を回復した田中角栄は、帰国後、
「周恩来は毛沢東の前では取るに足らぬ存在だ」と発言した。


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