- 日韓「禁断の歴史」/小学館
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親日派の弁明の著者の本
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2003年韓国のマスコミは麻生太郎・自民党政調会長(当時)の
「創氏改名は朝鮮人が望んで始まった」
という発言を批判し、江藤隆美元総務庁長官の
「日韓併合は両国が調印して、国連が承認している。
植民地支配ではない」
という発言に対してももう攻撃を浴びせました。
江藤隆美氏は1995年の総務庁長官在職時に
「植民地時代には日本は韓国によいこともした」
という発言が原因で辞任しましたが、発言発覚後の展開は当時と全く違った形で進行しています。
以前であれば「妄言騒動」と大々的にバッシングされ、
最終的には発言当事者の政治的責任を問う方向に展開したであろうこれらの事件が、
予想外に静かにやり過ごされているのです。
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当時朴正煕政権は慰問公演団という名目で、主に芸能人らで構成された軍隊慰安婦をベトナムに派遣した。
芸能人慰問公演団はある舞台に長期間とどまりながら多くの将校にセックス接待を行い、
ときには兵士にもその順番が回ってきたという。
その当時は歌手でもタレントでも、韓国の女性芸能人なら
誰もベトナム慰問を避けられない状況だったから、
その規模も相当なものだったと推定される。
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1959年に始まった北朝鮮への帰還事業で送られ、
”監禁”同様の生活を強いられるようになった1800人の日本人妻、
さらに彼等を含めて9万3342人に及ぶ在日朝鮮人の存在です。
詳しくは本署の第二章で触れていますが、当時の事情からすれば
「事実上の拉致被害者」とも言える彼等への配慮を今の日本で見ることはありません。
ーー中略ーー
日本で暮らしていた9万3342人の人々は、1959年から1984年までの間に北朝鮮に渡り、
それっきり殆どの人が帰ってきていない。
ごく一部の人間が故郷訪問しただけである。
ところが13人の拉致被害者に対してはこの大騒動である。
9万3342人の多くが在日朝鮮人で、しかも自ら進んで渡航したのだから拉致ではないというのだろうか。
そう考えているとしたら、とんでもない話だ。
よく考えてみてほしい。
強制的に連れ去れられた日本人とその家族が拉致の被害者であることは疑いようのない事実だが、
北送事業で北朝鮮に送られた人々も、そこから出ることが許されない
監禁同様の生活を強いられている点で拉致同様の境遇に置かれている。
もちろん「北朝鮮入り」は本人の意志だが、朝鮮総連のみならず朝日新聞なども
北朝鮮を「地上の楽園」と喧伝して送り出した当時の状況を思えば、
メディアぐるみの拉致と言っても過言ではない。
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1980年に発生した光州事件でも似たような経験がある。
筆者はこの事件の最後の闘争に参加した当事者でもあるが、
その時、光州は全斗煥の軍(戒厳軍)によって完全包囲されていたし、
すべての韓国メディアは真実とは隔たった報道をしていた。
当時、光州市民の側に立って報道していた唯一のメディアは北朝鮮の朝鮮中央放送だけだった。
そのため当時、光州市民は一日中、家で北朝鮮の放送を聴くことで、
この事件の成り行きを詳しく知ることができた。
私も後で全斗煥の軍によって逮捕され、「一日中、北朝鮮の放送を聞いた」という代価として、
まだ未成年だったにも関わらず、とても耐えられないようなひどい拷問を受けなければならなかった。
ーー中略ーー
その結果、1980年代半ばに韓国では自主的な主体思想派グループが組織され始め、
このグループは学生街で熱狂的な支持を得て、1980年代後半になると学生運動の主流として浮上してきた。
韓国では彼等を略して主思派(チュサパ)と呼ぶ。
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私は1987年後半、全大協に参加していた学生活動家からおどろくべき話を聞いた。
彼等は会議場に金日成の肖像画を掲げ、会議の前には全員起立して
「金日成将軍万歳」を3回復唱してから会議を始めるというのだ。
これはもう韓国の学生運動が朝鮮労働党の下部組織に編入されたことを意味するものだ。
このような主体思想派が学生運動を掌握するという伝統が今日まで続いている。
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朝鮮は典型的な奴婢社会であった。
全人口の30%以上が奴婢であり、
首都・漢城(現在のソウル)の場合は人口の70%以上にも及んだ。
奴隷はモノのように売買され、主人のため生涯奉仕しなければならなかった。
ーー中略ーー
朝鮮の成人男性には兵役義務があったが、現役服務をしないかぎり毎年布地を納付しなければならない。
これを軍布という。
官員は生まれたばかりの赤ん坊にも軍布を課し、甚だしくはまだお腹にいる赤ん坊にも課した。
全羅道康津にある貧しい農夫は男の子が産まれて13日目に
軍布を徴収しに来た官員に軍布のかわりに牝牛を持って行かれた。
この納付は毎年軍布を十分に納められないと思いつめた挙句、刃物で息子の性器を切り取った。
その後もう男の子でないから軍布を納める必要がないと主張したという。
これは当時の朝鮮人の暮らしがどれほど悲惨だったかを物語る例だ。